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転生考

特定作品の話をしようかと思っていましたが、気が変わりました。

今や、ライトノベル(文庫サイズではない単行本作品も多いのですが)において「異世界」は過飽和と言ってもいいくらいの量産ぶりを見せています。
これは「小説家になろう」系のWEB作品によるところが大です。
該当するモチーフそのものは新しくないとは言え、タイトルからして「異世界」を関したものが目立ちます。内容はともかく、いささかタイトルの時点で見飽きた印象があるというか、工夫がないというか……

そして、(編集者による煽り文句は別にして)タイトルからして「異世界」の名を冠するというのはほとんどの場合、現代世界に生きる主人公が異世界に召喚される・もしくは転生する話です。
つまり、現代世界から見ての「異」世界ということです。

ここまでの論理は一見明晰なようですが、よく考えると疑問はあります。
「異」世界とは、一体“どこに”あるのでしょうか。
多くの場合、魔法の類が存在していますが、それ以外の物理法則や生物はほとんど変わらず、人間は「この(われわれの)世界」の人間と同じのようです。
ということは、並行世界のようなものをイメージしているのかも知れませんが、多くの場合そうしたことは全く問題になりませんし、多くの点が「この世界」と同じであることに作中人物が驚いたり疑問を抱いたりすることも稀です。
しかし、少なくとも読者と、異世界に召喚されるもしくは転生した主人公は、「この世界」と「異世界」をまとめて見る視点を得ているわけです。二つの世界を一まとめに包括して一つの「世界」と呼んではなぜいけないのか。「世界」概念は何をもって画定されているのかは、甚だ不明瞭なままです(この辺は『涼宮ハルヒ』関連で言った覚えがあります)。

それはそうと、「召喚」と「転生」の違いはやはり、「転生」の場合、

1) 元の世界とは別の身体を得る
2) 物品を直接は持ち込みえない
3) 一度死んでから転生しているので、「元の世界に戻る」ことは問題になりえない

といったところでしょうか。3)は、最初から主人公の異世界での活躍を主題としている話において、「帰る方法があるのか」云々といったことを問題にしなくて済む、というメリットがあります(作品においては、余計な問いを立てないことも大切です)。
他方で「召喚」の場合、召喚される側の都合を考えずに呼び出す傍迷惑な奴として召喚者を描き、それに物申す(場合によってはぶちのめす)ことが主題になる場合もままあります。
(思えば、竹本泉氏の漫画『ねこめ~わく』は、まさに召喚される側の被る迷惑という点に目を付けた先駆的な作品の一つだったわけですが)

しかし、そもそも「転生」というのは真面目に考え出すと、転生先で異世界であるか否か以前に、様々な疑問を喚起します。

「前世の記憶を持つ」人はいつ頃から、どれくらいはっきりした形でその記憶を持っていたのでしょうか。
生まれた時から前世の記憶と人格をはっきり持っていた場合、その状態で乳を吸い糞尿垂れ流しの赤ん坊として過ごすというのは想像を絶するくらいに不自然なことのように思われます。一体どうなってしまうのか……

その点をさておいたとして、次に気になるのは言葉の問題です。
人間は6歳くらいまでが言語習得の臨界期と言われ、聞いていることで自然と言語を習得できるとされています。裏を返せば、成長してからの言語習得は、幼児と同じようには行きません。文法を学び、頭から入る必要があります。(「赤ちゃんは自然に言葉を学びます。外国語学習は自然に慣れればいいのです」といった類の謳い文句は、楽をしたい心理につけ込んで商売をするための嘘です)
果たして、前世での言語を習得している転生者は、自然に「異世界」の言葉を覚えることができるでしょうか。それは困難なように思われます。

そもそも、異世界の言語というのがどうなっているのかというと、「召喚」ものにおいては主として以下のパターンがあります。

1. (なぜか)異世界でも日本語を使っている
2. 召喚された人物には異世界の言葉を分かるようになる何らかの補助が働く
3. そもそも異世界では翻訳魔法の類が一般的に使われている

そもそも異世界とは何なのか、という最初の問題をクリアして、「異世界」が「この世界」にかくも酷似していることを認めるのであれば、あながち1.をご都合主義として退けることもできないでしょう(なお中には、「異世界」で日本語を使っている理由が存在する作品もあります)。
「転生」ものにおいては多くの場合、その世界で生まれ育った主人公は当然その世界の言葉を習得しているはず、と思うのか、言葉のことは問題にならない率が高いのですが、上述のような臨界期の問題を考えると、疑問は生じます。

他方で、ある程度成長してから「前世の記憶を思い出す」場合もあります。
この場合、そもそも私達が記憶を持ち得ない乳幼児期の問題はより自然にクリアできます。
ただ、ある時期(大抵の場合、幼い子供)に突然、前世(ある程度長い年月を生きた大人)の記憶と人格が完全な形で蘇るというのは、いかなる事態でしょうか。
それは「その“異世界”に生まれた子供の身体と精神を、突然別人格が乗っ取る」ことに近いのではないでしょうか。

いや、その限りではないのかも知れません。
確かに経験と記憶の蓄積は人格を形作り、それにより人というのは日々変化している(とりわけ幼少時には)ものですが、もしかしたら人格の内には、そうした経験的要素に左右されない部分も、あるのかも知れません。同じ環境で育った双子でも、しばしば性格が違っているのは事実ですから。
哲学者ベルクソンの曰く、「スピノザがデカルトよりも前に生きていたら、彼はきっと実際に書いたのとは別のものを書いたでしょうが、しかしスピノザが生きて書くならば、われわれはスピノザ主義をそっくりそのまま得ることは確実です」(「哲学的直観」『思想と動くもの』所収)。

こういうことを真面目に考え出すと、それはそれだけ一つの作品が書けるような独自の問題系に通じていることを、私は否定しません。そして、話の趣旨によっては、そういう問題に付き合いすぎない方がいいことも。
ただ、考えようと思えば考える余地があることは事実です。


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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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