オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
選択の余地のない選択
時々、このゲームの話もしてきました。
もっとも、私が自分の手で実際にプレイしたのは『VI』までで、『VII』と『VIII』は家族がプレイしているのを後から見ていただけ、『IX』以降は見てもいないのですが(だから、だんだんストーリー認識が怪しくなります)。
最近になって『VII』は改めてプレイしたりしましたが。
ただし、今回は『VII』の話ではありません。
今更な話ではありますが、『ドラクゴンクエストV 天空の花嫁』と言えば、言わずと知れた、主人公6歳の時からの半生を描き、物語の中盤で主人公が結婚するというシナリオが強烈なインパクトを残した作品でした。
そして主人公の嫁候補が2人いて、「どっちを選ぶ?」という展開であったのも、とみに有名。
ただ、(これまた周知のことではありますが)この選択、まったく非対称なのです。
ビアンカは主人公の幼馴染みで、幼年時代にも一緒に冒険したことがあり、そして花嫁選びの直前まで主人公の冒険に同行していました。それに対してフローラとは少し前に出会ったばかりで、さしたる恋愛フラグもなし。大富豪ルドマンが家宝の「天空の盾」を娘の婿に与える、と宣言していることから、天空の盾を求める主人公は品目当てでなしくずしで花婿候補に立候補した格好です。
しかもフローラに想いを寄せるアンディという青年がいて、主人公がビアンカと結婚した場合はきっちりフローラと結婚しているのに対して、主人公がビアンカを選んだ場合はビアンカはずっと独身のままという辛さ。
そもそも、パッケージをはじめとする公式のイラストからして、基本的に主人公と一緒に描かれているのはビアンカで、息子と娘のイラストもビアンカと同じ金髪というあからさまさ(私のように二週目プレイで両方を試さなかったものぐさなプレイヤーは、そもそも子供たちの髪の色が母親に合わせたものになることにすら長いこと気付かなかったり)。
さて、これはあからさまに意図されたことのように思われます。
というのも、制作者の堀井雄二氏からして、「9割方の人がビアンカを選ぶと思ったが、思ったよりフローラを選ぶ人もいた」と言い、さらにはリメイクに当たってデボラという3人目の嫁候補を追加してかなり議論を呼んだ(※)のですが、これも「思ったよりフローラを選ぶ人がいたので、誰も選ばなさそうなキャラを作ってみた」との談なのですから(その意味では、リメイクだと幼年時代からフローラとの接点が描かれたりしているのも、「ぽっと出のキャラだったフローラに対する救済」というよりも、「フローラをあえて“選ばれないキャラ”にする必要がなくなった」とも考えられます)。
※ 上述の通りで、リメイク版については私はざっと見ていただけですが、『V』はシリーズ中でもリメイクによる改変が本編ストーリーに及んだものの一つで、そのしわ寄せは他にも少なくない感はありますが。
つまるところ、制作者は「どちらも捨てがたくて、迷う」選択ではなく、「初見ならおのずと一方に決まり、選択の余地はない」選択を作ることに熱心であったように思われるのです。
ギャルゲーの制作者ならば、いずれのヒロインにも選びたくなる魅力を設定して迷わせるところかも知れませんが(とはいえ、世の中には常識外れのゲームもあるので分かりませんけれど)、この場合はそうではないのです。(※※)
※※ 念のために言っておきますが、これはもちろん、「どちらが良いか」「どちらが正しいか」という話ではありません。
ただ、作品の意図として選択が非対称になるよう、大多数のプレイヤーが一方を選ぶように作られている、ということに注目したいだけです。
もちろん、「大多数のプレイヤーが選ぶ」方を選ばなかった人に何か悪いことがある、というわけではありません。少数派であることや他人の意図通りに動かされないことは、必ずしも悪いことではないのですから。
考えてみると、ゲームには存外、こういうことが多いのです。
一方で、特定のアイテムを手に入れるとかフラグを立てないと次のイベントが起こらず、先に進めないという形で完全にルートが固定されていることもありますが、他方で、「その気になればルートを外れることもできるけれど、初見で普通に半田してプレイしていれば、だいたいこうなる」という風にプレイヤーを誘導していることも多々あります。
あるいは、予備知識があれば回避出来るけれど、初見だとだいたい誰でも引っ掛かる難所とか。つまり、誰でも同じように考えるということです。
そしてゲーム制作者なら、そういう誘導の仕方は周知のことでしょう。
ゲームには確かに選択肢があり(「はい/いいえ」の選択肢だけでなく、キャラのパラメータをどんな風に育てるかといった、ほとんど無数の可能性があることまで)、プレイするたびにその選び方を変えることができます。
しかし、選択肢が存在することによってかえって、「実質的には、人にはそれほど選べる可能性は多くない」と思い知らせてくることもあるのです。
「“ゲーム的想像力”の世界=多様な可能性が並置された偶然性の世界」という見方に対し、私がどちらかといえば批判的なのも、こういうことがあるからです。
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