共依存の行き着く空虚――『いもーとらいふ 〈上〉』


サディズム、マゾヒズム、ロリータ・コンプレックス……といった性癖は、文学者やその作品名から名付けられており、裏を返せばそれらの作品はその性癖を描いた分野を代表する作品と言えます。
では兄妹ものを代表する文学とは何でしょうか……と考え始めると、どうもピンと来るものが思い当たりません。

(ちなみに『篁物語』は、異母兄妹が結婚できた社会の話ですので、今で言うと「親戚のお兄さん」くらいの感覚に見えます)

……そんなことを前置きにして、今回はまさに「妹」を扱ったライトノベルを取り上げさせていただきます。
入間人間氏の新作です。



本作は『電撃文庫MAGAZINE』の2話まで掲載されたものに加筆修正の上、書き下ろしを加えての単行本となります。
雑誌連載時に少し触れた記事はこちら

入間氏の作品にはままあることですが、しかし電撃文庫刊行作品には珍しく、本作の登場人物にはいっさい固有名がありません。
主人公の大学・社会人時代が大部分を占めていることといい、作者が普段メディアワークス文庫で刊行している作品に近い印象がありますが……電撃文庫からの刊行はイラストと作品モチーフからの判断でしょうか。
ただ、本作が表紙とタイトルの与える期待に応えるかどうかは微妙なところです。その辺は後述。

それはさておき、本作は兄の「俺」による一人称語りで、この上巻では彼が3歳の時に妹が生まれてから妹25歳までの半生を描いています。
2人は3学年差(妹は2月14日生まれ、妹6歳の夏休みに兄は10歳とあるので、兄の誕生日は4月~8月の間と分かります)。
入間作品の主人公は、子供であってもかなり大人びた語りをすることが多いのですが、本作は明確にしばしば「後からの回顧的な視点」が入っており、少年時代のエピソードも大人になった主人公の視点での語りだと分かります。

生まれてしばらくは妹という存在に戸惑っていたものの、妹が小学1年の時に夏休みの宿題の絵日記を手伝って以来、何かと妹の面倒を見るようになり、それが妹のためにならないのでは一人気に病んで家を出たりもしつつ、結局は元の木阿弥、しかも大学でできた彼女よりも妹を優先してしまい、気が付けば人生を妹に捧げていた兄の物語です。

同じ部屋に布団を並べて眠り、(彼女相手にもやらないのに)ごく自然にお互いにスプーンでアイスクリームを食べさせるなど、二人が互いにべったりな様子はよく伝わり、序盤はどこか微笑ましくもあります。
そして、共依存の兄妹というのはきっとこんな感じだろう、という迫真性にも満ちています。

しかしだからこそ、後半、気が付けば人生を妹に捧げた結果としてあまりにも多くを失い、何も残らなかった三十路の兄の境涯は、すさまじく心を抉るものがあります。

妹が自分を必要としなくなったら、そのことに身を捧げてきた自分はどうなってしまうのか――


さて、そんな本作を「妹もののライトノベル」という範疇に含めていいのかは、難しいところです。というのも、以下のような特徴がこのジャンルの範例に反するように思われるからです。

(1) 妹が客観的に見て可愛いとか、そういう記述はかなり少ない
(2) ましてや、兄が妹に性的な視線を向ける描写は一切ない
(3) 妹が拗ねるとか喧嘩するとか、そういうラブコメ的なイベントはない

(1)に関しては、ないではないものの、小学校時代に「多分、成長したら俺よりは妹の方が周りに人気出るだろう。と、思う」(p. 33)とか、主人公が就職してから同僚に言われていまさらのように「やっぱりか」と思うくらい希薄なもの。地の文にしばしば見える「かわいい」は、まずもって庇護対象としての「かわいい」を指示するものとして使われています。
そもそも、幼く見える――大学生になっても中学時代から変わっていない――ことを除けば、一番容姿の描写があるのは生まれた直後の「保育園に預けられる赤子よりもずっと小さく、M字ハゲで頬が赤い」(p. 14)ではないか、というくらい。

そもそも、伊藤剛や斎藤環といった論者たちが語るように、「キャラ」というのは文脈から切り離されて同一性を保つものである(その例が二次創作である)としたら、「妹キャラ」とは何でしょうか。
「妹」とは「誰かの妹である」という文脈に依存する概念なのではないでしょうか。
早急に結論を出すことは控えておきますが、世に言う「妹萌え」というのは、まずもって「客観的に見て可愛い美少女が、主人公の妹である」ということが肝心なのではないか――そんな気はしています。「わが妹ながら相当に美少女だ」といった記述はよく見かけます。
そして、兄妹の枠を超えて男女としての想いを向けてしまうのも定番。

本作はそういう方向からは外れています。(2)に関しては、風呂上がりの妹が半裸でいる場面で明らかでしょう。

さらに言えば、序盤に

 雪を避けて生まれてきたからだろうか。三歳の時だったか、また雪が多く降った冬に親父がソリを持って遊びに連れて行ってくれたときもすぐに『寒いもう帰りたい』と泣いてしまうぐらいだ。そんな妹を当時の俺は口にこそ出さないが、根性のないやつだと思っていた。まさかその評価がそれから先もずっと変わらないは、さすがに考えていなかったのだけれど。
 (入間人間『いもーとらいふ 〈上〉』、KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2016、p. 14)


とありますが、これもよく見れば兄による「評価」であって、妹が実際に客観的に見て「根性がない」、頼りない、という話ではないのです。
実のところ、小学1年の夏休みの宿題を手伝ってから頁数にするとあっという間に妹は中学生になり高校生になりますが、その間兄が何でもかんでも面倒を見ていたとは、書かれていません。
妹は外に友達がいないらしい、だから遊び相手は自分の他にいないのだろう、と兄は判断していますし、その判断はほぼ間違いないのですが、兄が友人に付き合うことを選んで帰りが遅くなった時も、大学進学に当たって家を出た時も、妹は表向きこれといった反応を見せません。ただ、このままではいけないんじゃないかと兄が自分の内で気に病み、そして結局は自分にとって妹が一番大事なんだというところに回帰しているだけです。

もちろん、この妹が兄にべったりなのは明らかですし、特に家を出た兄を追いかけるに当たってはかなり空恐ろしい執念を見せたことも、後に母の台詞から分かります。それに、兄に彼女がいたと知った時には、さすがにショックそうでした。
ただ、そこで妹が拗ねる、兄に要求する……といったラブコメ的なイベントはないのです。妹がショックなのを見て何よりも兄がショックを受けてしまい、そこで自分にとって妹が一番なんだと自己完結してしまうのです。

ここには徹底して、「兄とは何か、妹とは何か、自分は兄としてどうありたいのか」という兄の自意識しかありません。

これだけの自意識小説を読んだのは芥川龍之介「鼻」以来のような気さえしています。
まさしく、禅智内供にとって問題は自分の鼻の客観的な長さではなく、人の自分に対する視線、そしてそのことによって傷付けられる自尊心であったように、本作で問題なのは妹が客観的に見てどうかではなく、この兄にとっての妹であり、それに対する歪な庇護欲です。

もっとも、兄が大学で出会った「彼女」は、(兄弟がいないこともあってか)妹のことに激しく反発します。

『あなた、包丁があったら妹に柄を握らせて私に刃を持たせるのね』
「どうしてそうなる。そんなときがあるなら、一本の包丁を使い回せばいいじゃないか」
『お断りよ、そんなの』
「じゃあ、包丁を二本買うとか」
『あなた分裂できるの?』
 例え話と現実的な解決方法が接触事故を起こして会話になっていない。だけど、彼女の言い分がなんとなく伝わってくるのはその感情にまかせた言葉遣いのお陰だろうか。
 (同書、pp. 109-110)


しかしここでも、妹と彼女は出会うことすらなく、修羅場は妹の知らないところで過ぎ去っています。
結局こうした彼女の反応も、どこかで妹への愛と彼女への愛を並列に比較してしまい、「妹と彼女の共存は無理だ」(同書、p. 94)と確信している主人公の心理を鋭敏に察しているからではありますまいか。


そして繰り返すようですが、終盤で描かれる、空っぽな三十路の哀愁の重さ。
成長することで失うもの、といったテーマも作者のしばしば描いてきたことでしたし、また『エウロパの底から』のような作品では、三十路の不安も鮮やかに描いて見せました。『エウロパ』の主人公の心理は作者の投影という全く個別的な事例のようにも見えますし、またある面ではそう読まれるべくして書かれているのですが、人生の先と限界が見えてきた三十路の不安という面で、かなりの普遍性と迫真性を持った描写でもありました。
『エウロパ』から数ヶ月も経たずに『砂漠のボーイズライフ』を刊行し、また今でも『安達としまむら』を続けていることを見れば、後から振り返ると「小さなことで悩んでいたな」と思える思春期の不安と、三十路の不安の重さを描き分ける手腕はご理解いただけるはずです。

ここでしつこく同じ名前を引き合いに出して、芥川で三十代で「将来へのぼんやりした不安」により自殺したことに触れるのは、無用のことでしょうか。

とにかく、この共依存とその行く末の描写の生々しさには、傑作の気配を感じます。
本作の下巻は秋刊行予定とのこと。
いったい兄の人生はどうなってしまうのか、「らいふ」というタイトルからして老後まで描いてくれるのか、恐ろしいながらも楽しみです。


さらなる余談ながら、年老いて兄妹二人暮らし……というのはしばしば実在する事例のようですが、思い出すのは『赤毛のアン』のマシューとマリラだったりします。
モンゴメリには二人を「子供のない老夫婦」にしたくない確かな理由があったのでしょう。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
カレンダー
02 | 2017/03 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
参考文献
私が展開している思考の拠り所など(一部)。
スポンサー広告