オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
フィクションを書く意味
これが野心作となるかただの馬鹿の仕事となるかは、結果次第ですが。
まあ、結論部の候補を二つ書いて選んだりしているのを思うと、やはり馬鹿なのかも知れません。
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さて先日、「異世界で言葉が通じる」ことの問題について少し書きました。
この件についてもう少し考えてみましょう。
まあフィクションの世界には、途方もなくハイスペックな天才主人公が溢れているのも事実。
そんな天才ならば、先人の手引きもないまま未知の言葉を話す人々の中に入り、ゼロから言葉を習得していける――という話なら、どうでしょうか。
確かに、そういう設定であっていけない理由はありません(転生ものですが、『転生少女の履歴書』などは実はそれに近い設定です)。
しかし、未知の言葉を習得していく過程というのは、なかなか描くのが難しいものです。
「未知の言葉」についてある程度詳しく設定するのか否か……
さらに言えば、いくら天才であっても、なかなか外国語を母語を同じ感覚で使いこなせるようにはなりません。それでは、言葉遊びや冗談を駆使した会話をするに当たってもマイナスなのではありますまいか。
あえて「カタコトの主人公」を設定する意味があるなら、ともかく。
そうやっていくつかの困難を乗り越えて話を書いたところで、さて、そもそも現実に未知の地で未知の言葉を話す人々と出会い、ゼロから交流を築いた探検家やフィールドワーカーのドキュメンタリーはすでに存在しています。
それをフィクションで反復して面白いのか、ノンフィクションの迫力に勝てるのか、そこを考えないといけません。
「リアリティの追究」と言いますが、現実にあることを写すだけでは、フィクションを書く意味がないのです。
現実的な感覚を備えているのは大いに結構、しかし問題は、どう「フィクション」へと踏み込むかです。
(なおこれは、別に「現実は厳しく思うようにならない、フィクションの世界は優しくてご都合主義」といった安易な対比とは限りません。踏み込む方向は様々に考えられます)
そして、おそらくそれこそが、「創作の才能」に関わる部分なのです。取材して細部を作り込むとかいうのは、言ってしまえば、その上に乗せる装いです。
まあつまり、繰り返しになりますが、フィクションの筋に大して重要でないことはこだわらずに片付ける、それもテクニックの一つです。「説明もなくなぜか異世界で言葉が通じる」であっても、それは一つの手法です(ただし、「それが許される雰囲気の作品に仕立てる」ことこそが一番重要なテクニックになってくるでしょうが)。
――結局、これだけ分析をやってきてようやく分かってきたことの一つですが、「その筋ならば何が重要で、何をスルーすべきなのか」、あるいは逆に「その作風ならばどんな筋が活きるのか」、この見極めこそが肝心要であり、難しいところです。
商業出版作品にも、その辺がちぐはぐに見えるものは珍しくありませんし……
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