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おぞましき自己の全重量――『いもーとらいふ 〈下〉』

先週末は学会で東京に行って来ました。
8日金曜日はベルクソン哲学研究会(※)、9日土曜日は日仏哲学会と立て続けです。

※ 実はこの会、今回はなかなか世話人が決まらないなどの事情があり、日仏哲学会が本大会の前日に開催するワークショップのために会場として取ってあった教室を利用して「ゲリラ的に」開催するに至ったものですが。

日仏哲学会の会場では機関誌『フランス哲学・思想研究』第21号も発行。
拙論「持続でもなく空間でもなく ―ベルクソン哲学における『アリストテレスの場所論』の位置付け―」も掲載されています。
まあ地味な論文ですが……

フランス哲学・思想研究21号表紙

近年機関誌が分厚くなっており、著者配本を含めて3冊も貰うとかなり重くなりました。
こちらの機関誌も商業出版ではないので、入手法は日仏哲学会に問い合わせてみてください(欲しがる人がまずほとんどいないと思いますが……)。

 ~~~

さて、今回取り上げるライトノベルはこちら、入間人間氏の『いもーとらいふ』後半です。



 (上巻の記事

上巻では妹が生まれてから25歳までを描いてきて、最後でついに妹は小説家としてデビューしました。
それゆえ、今までしがないパン工場のライン工として心身をすり減らしながら「妹を養うため」の一心で働いてきた兄は、もはや養う必要もなくなり、自分には(妹以外)何もなくなっていることに気付きます。
と同時に、自分は「弱い妹が好き」で、「そんな妹に頼られる自分が大事」(『いもーとらいふ 〈上〉』、p. 280)だったことに、ようやく気付きます。

そんな途方もない空虚に対面して、兄の苦悩は深いまま、この下巻ではさらに妹26歳以降に時は進んでいきます。
とは言え――

下巻の大部分は、何も起こらない、兄妹の甘い日々を描いています。妹が歳月を経るほどに露骨な甘えを見せるように退行していくせいもあります。上巻の最後で突き付けられたあの重々しさと辛さは、むしろ退いた印象。
また今回は妹視点のパートが挿入され、彼女が想像以上の執念を抱いていたことも判明します。彼女には「にーさんの言うことを信じていれば間違いはない」という凄まじいまでの信仰があります(普通は成長に従い相対化していくはずのそうした信仰を彼女は一切揺るがしません)。
たとえば小学校の宿題の絵日記を手伝ってもらって、「小説を読めば」と勧められたのを愚直に信じて実行する一方、

 にーさんが寝転んで、買ってきたまんが雑誌を読み始めます。にーさんはわたしに小説をすすめながらまんがを読みます。にーさんぐらいになれば、きっとわたしもまんがを読めるのです。早くまんがを読めるぐらいになりたいと思いました。
 (入間人間『いもーとらいふ 〈下〉』、KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2016、p. 101)


多分、漫画の方が子供にも読みやすいものであり、また小説の方が高尚であるという世間の評価を、彼女はたとえ耳にすることがあっても理解することは決してありますまい。

しかも兄と違って一切悩まず、兄の都合でさえ無視して、邪魔な全てから兄を奪おうとします。そこには時に、背筋の寒くなる表現がありました。

ですが、この妹視点の存在によって、徹底して兄の自意識しかなかったこの物語がかなり脱中心化されたという印象も。
1巻の重さから身構えて読むと、いささか拍子抜けなところはあります。


が、そもそもそうした甘くほのぼのした日常は、いかにして可能になったのか――そこを見てみることが肝要です。
実のところ、兄妹がお互いだけを求めて共依存的に密着しながら、お互いに求めるものが決定的にズレている――兄に誉めてもらうべく頑張る妹と、庇護の対象となる妹を求める兄――ことも、結果として兄が埋めがたい空虚を抱えることになるのも、何も解消されてはいません。

一つの転機として、主人公たる兄がこれからの身の振り方について迷っている中、かつて通っていた大学のキャンパスに足を運んで、一人の女性(『虹色エイリアン』を読んでいる読者には猿子だとすぐ分かります)と会話する場面があります。
その会話から、一つの結論に至るのです。

 でもやっと、生まれた引っかかりの形を理解する。
 妹を大事にすることとはまた別……いや違う、違うな。
 妹を大事にしたいと願う俺がここにあるまでの道を、疎かにできないのだ。
 たくさんの思い出。
 良かったのも、悪かったのも忘れたくはない。
 決してだ。
 ……なるほど。
 そういうものなんだ。
 けっこう、簡単なことだった。
 (同書、pp. 72-73)


彼がその結果として何を決断したかと言えば、仕事を辞めて妹に養われる生き方は回避した、ということです。
妹が小説家として稼げるようになった今、それも可能とはいえ、これ以上駄目になることを回避した、と見ることもできます。

しかし、務め人としての再就職が難しくとも、仕事を辞めて、務める以外で新しい生き方を求めるという選択肢もあり得ます。
もはやこれ以上得るものも残すものもないと知りつつ、残りの人生もしがないパン工場のライン工として働いて生き続けるという決断は、仕事を辞めるのと比べてどちらが途方もない決断なのか――
それでも彼は、「ここまでの自分」の全重量を引き受けることを選んだのです。

あとがきによれば、老後までの悲惨な流れを描く構想があったとのことですが、おそらくこの下巻が上巻と比べてマイルドな印象になっているのは、そうした悲惨な過程が描かれるか否かではなく、むしろ主人公たる兄の態度決定の問題ではないかと思われます。
ここから先、彼の迷いや悩みの描写が減り、妹との甘い日々になっていくのは、この彼の諦観、あるいはもっと言えば悟りに基づいているのです。

「悟り」とはいかにも大袈裟ですが、しかし全く的外れとも言えますまい。
仏教で言う悟りとは平たく言えば「真の自分」ですが、自分の実態などというのはだいたいロクでもなく、気持ち悪くて、見るのも嫌なものです。しかしそんな凡俗たる自分に向き合わねば、修行も悟りもありません。だからたいていの人は自分から逃げ出そうと(虚しい努力を)するのです。
本編の主人公はそんな自分を「今ここでこのまま」引き受ける決断をした。凄まじいことです。

以下の箇所もご覧あれ。

 でも、こうするしかないんだよな。
 妹と一緒に、上手く生きていくためにはこれが最善だった。
 だから妹は正しい。
 皮肉でもなく、冷静に事実だけを拾い上げていけば、正しいのだ。
 親を裏切るようなことでさえ、前向きになればこうだ。
 俗世の理(ことわり)を捨てた!
 本当の自分と出会えた!
 真実の愛を見つけた!
 (同書、p. 182-183)


なお「真実の愛」については「真実の愛は人生を変えるのか?」でも語った通り。
(まあ本来の仏教の場合、妹への愛欲も捨てるべきなのでしょうけれど)

今巻の冒頭には

 捨てられれば楽になるとは分かっていた。
 無理に捨てないでいたら辛くなるばかりだとも身に染みていた。
 だけど捨てなくて良かったって思ったことは一度や二度じゃないから。
 だから、俺はこれでいい。
 (同書、p.9)


という文言が題字のように掲げられていました。
これがどんな文脈で意味を持つ文言だったのかは、最後まで読めば分かります。

加えて本作は作者にしては珍しく、あとがきで執筆の動機を物語っています。
それは、どんな身近なことでも大切な想い出でも、遠ざかれば次第に記憶は薄れていくことです。
忘れるのは寂しく哀しい。けれど持ち続けるならば、その分重くなり、辛くなります。

そんな、重荷であり辛いものであると知りつつ、そこまでの道程の全重量を含めて自分を、自分にとっての「真実」を引き受けるならば――
本作はそんな話です。
それが「正しい」かどうか、誰が言えるでしょうか。少なくとも社会的には誉められず、両親からも理解されませんでした。
けれども一度踏ん切りが付けば、後から振り返る時に確かに幸福たり得たのです。

最高に気持ち悪い歪な生き方、しかもそんな自分と直面する人間の姿を描いてくれました。傑作です。

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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