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人間の条件 ~もしくは動物化の不可能性~

欠落と余剰 ~『数えずの井戸』~の続きに当たります)

何かが足りないならば、その足りないものを補って埋めれば終わりですが、欲望というのが「さらに付け加わったもの」であるならば、欲しいものを手に入れたところで欲望が無くなるとは限らない訳です(打ち消し合うこともあるかも知れませんが)。「欲望には限りがない」ということも、このことによると考えられます。
ちなみに、「欲求(besoin)」と「欲望(désir)」の区別は、フランスの現代思想なんかでは割とポピュラーなもののようですね。

コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。…(略)…たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏―満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。
しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。その種の渇望の例として、コジェーヴを始め、彼に影響を受けた多くのフランスの思想家たちが好んで挙げてきたのは、男性の女性に対する性的な欲望である。男性の女性への欲望は、相手の身体を手に入れても終わることがなく、むしろますます膨らんでいく(と彼らは記している)。というのも、性的な欲望は、生理的な絶頂感で満たされるような単純なものではなく、他者の欲望を欲望するという複雑な構造を内側に抱えているからだ。平たく言えば、男性は女性を手に入れたあとも、その事実を他者に欲望されたい(嫉妬されたい)と思うし、また同時に、他者が欲望するものをこそ手に入れたいとも思う(嫉妬する)ので、その欲望は尽きることがないのである。
 (東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001、pp.126-127)


という訳でここから、東氏の著作タイトルでもある「動物化」という論議が出て来る訳です。「他者の欲望を欲望する」という「間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏―満足の回路を閉じてしまう状態の到来」(同書、p.127)を指している訳です。

この「動物化」に至る歴史的過程は、もう少し前のページでやはりコジェーヴにのっとって書かれています。大まかに言うと以下のような感じですね。

1.ドイツの哲学者ヘーゲル(1770~1831)によると、西洋的な近代社会の登場をもって歴史は終わった。
2.フランスのコジェーヴ(1902~1968)のヘーゲル解釈によると、「歴史の終わり」の後には日本的な「スノビズム」アメリカ的な「動物への回帰」の2つしか残されていない。
3.第一次大戦期~1970年頃まではスノビズムが力を持っていた。
4.しかし'70年代以降の「ポストモダン」においては、もはやスノビズムは力を持たなくなったので、残るは動物である。

「スノビズム」についてはもう少し説明が必要ですね。

ヘーゲルによれば(より正確にはコジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)、ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。
対して動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の擁護では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。…(略)…
他方で「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。…(略)…コジェーヴがその例に挙げているのは切腹である。切腹においては、実質的には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規律といった形式的な価値に基づいて自殺が行われる。これが究極のスノビズムだ。このような生き方は、否定の契機がある点で、決して「動物的」ではない。だがそれはまた、歴史時代の人間的な生き方とも異なる。というのも、スノッブたちの自然との対立(たとえば切腹時の本能との対立)は、もはやいかなる意味でも歴史を動かすことがないからである。
 (同書、pp.97-98)


この後、岡田斗司夫氏が「江戸文化の後継者を自任しつつ」語った「だまされているのを承知の上で、本気で感動したりもする」オタク的感性が、「形式と内容を切り離す」という点で、つまりは実質的な内容はないのを承知であるかのように振る舞うという点で、スノビズムの系譜にあるものとされます。

この辺でそろそろ言いたくなるのですが――何をおっしゃる、と。
例えば、我が家では私が生まれてから27年間、電子レンジが「欠乏」したことはありません(今年になってようやく、私と同じ歳だった電子レンジを買い換えました)。消費社会というものが本当に「欲求」のみ、つまり「欠乏―満足の回路」で動いているのだとしたら、どこの家でもこうなっているはずで、その場合家電業界のシェアは今とは比べものにならないくらい小さなものになっているでしょう。
コジェーヴがなぜアメリカ型の消費社会を「動物的」だと思ったのか、詳しいことは分かりません。東氏の解説を孫引きしている時点で限界はあって、学問的にやるならばヘーゲルやコジェーヴの原点を当たるべきところです(ここではもう少しいい加減に、思ったことは言っていく方針にしているからやるのですが)。ですから、以下がコジェーヴ批判として正当かは分かりませんが、多少の指摘はしておきます。

2箇所の引用箇所でそれぞれ異なる「人間」と「動物」の区別がなされています。1つは人間が「欲望」を持つことで、もう1つは人間が「環境を否定する」ことです。そして(東氏の説明から読み取れる限りでは)コジェーヴの中でこの両者は一致しているらしいのです。
が、欲望を「追加」だと考えてきた我々の理路では、欲望を「否定」によってのみ考えるのは、間違ってはいないとしても片手落ちなのではないか、とも思えます。(極めて乱暴な言い方をすれば、「歴史の終わり」とは「達成すべきことは達成された」、つまり「満ちた」ということです。しかし、満ちても欲望は無くなりません)
まあしかし「もっと何かが欲しい」というのは現状への不満、つまり否定だとしましょう。すると、消費社会の人々は環境を否定する行動に満ちています。クレーマーという人種が出現するのも、もしかしたらそのせいではないでしょうか。

ものはついでで(と言っては失礼ですが)、ここで心理学者・岸田秀氏の性的唯幻論を持ち出してみると、まず引っ掛かるのは第一の引用部分の「人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている」という辺りではないでしょうか。
岸田唯幻論の全ての出発点は「人間は本能が壊れた動物である」ということですから、「欲求で駆動され」た人間の生活など、そもそもあり得ないことになります。食べるといった生命の維持に必要なことでさえ、人間の場合は単に動物的欲求に従っているだけではできない、と言うんですね。「動物化」なんて、したくてもできないという訳です。

人はパンのみにて生くるにあらずと言われるが、まさに、生物学的生命から遊離した自己なるものを築いた人間はパンのみで生きることはできない。しかし、もしパンのみで生きることのできる人間がいるとしたら、われわれよりはるかに平和的で、はた迷惑でない存在であろう。
 (岸田秀『続 ものぐさ精神分析』、中公文庫、1996年改版、p.34)


ちなみに、「もはやスノビズムが力を持たなくなった」ことに関する東氏の説明は、大澤真幸氏の「理想の時代」と「虚構の時代」の理論なんかを持ち出しているのですが、この辺は私もまだよく分かっていないので、またの機会(あれば)とします。オタク論も今回はほとんど関わりませんでした。
                           (芸術学3年T.Y.)

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