FC2ブログ

オタクのコミュニケーションとは?

先日の記事で言い忘れてたなあと思うところから始めます。
(東氏の説明によれば)コジェーヴが「戦後アメリカの消費社会」を「動物的」――すなわち、「与えられた環境を否定する行動」がないと見なしたのは、「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」ためでした。消費社会を動物的とは見なさないならば、この点はどうなるでしょうか。
考えられる答えは現状では2つです。

1.商品を供給する側も常にニーズを満たせる訳ではなく、またメディアも意のままにモードを操れる訳でもなく、企業やメディアと消費者との間には一定の緊張関係がある。
2.「与えられた環境を否定する」人々と言えど、「環境を否定する」行動を誘発する別の(より広い)環境には操られている。

どちらも現実にはある程度当てはまるのではないでしょうか。

さて、『動物化するポストモダン』の後半(第二章第7節「スノビズムと虚構の時代」辺りから)は、先日述べたような「動物化」という論議に入ります。これは、ボードリャールやリオタールに依拠して「ポストモダン的」状況を代表する(とされる)日本のオタク文化を語っていた前半とは別の論議として読めると思うのですが、東氏はオタク文化の話をそこに合流させてきます。
先日の紹介で触れた通り、岡田斗司夫氏の語ったようなオタク文化はスノビズム的であったが、今は「動物的」なあり方に変化している、と言うのですね。
そのために『To Heart』『Kanon』『Air』といった「ノベルゲーム」や、そのデータを取り出してつぎはぎするようなオタク達の行動が紹介されているのですが、なぜそれが「動物化」の証なのか、例えば「「不治の病」「前世からの宿命」「友達の作れない孤独な女の子」といった萌え要素が組み合わされて作られた、きわめて類型的で抽象的な物語」(p.114)といったものは果たしてポストモダンに特有のものなのか、という疑問に関しては、あまり説明してくれていないように思えます。

が、それより注目したいのは、その後の言い訳ですね。

とはいえ、このような主張には反論があるかも知れない。なるほど、オタクたちが作品に向ける態度は動物化しているだろう。つまり、欠乏―満足という単純な論理で動く者になっているだろう。しかし彼らは同時に、それなりに社交的な人々としても知られているのではないか。オタクたちは実際には、他者との接触を避けるどころか、インターネット上のチャットや掲示板、現実世界での即売会やオフ会などを通して、きわめて多様なコミュニケーションを展開しているのではないだろうか。っそしてそこには、他者の欲望を欲望する、という複雑な関係もしっかりと働いているのではないだろうか。…(略)…
ところがそうではないのだ。なるほど確かに、ポストモダンのオタクたちも「人間」であり、欲望と社交性を備えている。しかしその欲望と社交性のありかたは、やはり、かつての近代的な人間からずいぶんと離れているのである。
幾度も繰り返しているように、オタクたちは現実よりも虚構のほうに強いリアリティを感じ、そのコミュニケーションもまた大部分が情報交換で占められている、言い換えれば、彼らの社交性は、親族や地域共同体のような現実的な必然で支えられているのではなく、特定の情報への関心のみで支えられている。したがって彼らは、自分にとって有益な情報が得られる限りでは社交性を重文に発揮するのだが、同時に、そのコミュニケーションから離れる自由もまたつねに留保している。携帯電話の会話にしろ、インターネット上のチャットにしろ、不登校や引きこもりにしろ、そのような「降りる」自由は、オタク系文化に限らず、九○年代の社会を一般に特徴づけてきたものだ。
 (『動物化するポストモダン』、pp.136-137)


しかしここはこう断言しているだけで、これ以上の証明はありません。

簡単な例で考えてみますが、ネットの掲示板に「○○たん萌え」「○○は俺の嫁」等々と書き込んでいる人達は、一体どんな「有益な情報」を求めていると言うのでしょうか。
確かにネット上には萌え情報や画像もありますし、もっぱらそれを手に入れることを目的として、自分からは大した情報を発信せずに見て回っている人もいるでしょう。しかしそのことは、上記のような何も有益な情報に繋がらない発言で話を繋いでいる人の行動を説明しません。
これは萌えコンテンツそのものよりも「自分は○○に萌えていると他人にアピールする」「同好の士と話題を共有する」ことを求めている、つまり「他者の欲望を欲望」しているということでしか説明できないのではないかと思います。

もっと具体的な話を引っ張ってきましょう。

ニコニコ動画の場合、[YouTubeが扱っていたような]著作権侵害コンテンツを扱うのは難しい。そうなると、著作権侵害コンテンツを楽しんでいた人たちが、ニコニコ動画に来なくなり、成功は難しいという考えに至ります。
僕も最初はそう考えました。しかし最近になり、実はユーザーにとって、観ている動画はどうでもいいことに気がつきはじめたのです。
ニコニコ動画は、YouTubeと違い、動画に対してコメントを書き込むシステムが導入されています。ユーザーは、この機能を使って他のユーザーと会話がしたいだけなのです。…(略)…
それは、コメントを消して動画だけを観る機能を搭載しているにもかかわらず、ほとんど使われていない状況からもわかります。つまり究極のネタ提供の世界になっているのです。
 (ひろゆき(西村博之)『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? 巨大掲示板管理人のインターネット裏入門』、扶桑社新書、2007、p.66)


そして、こんな話も挙げておきましょうか。

ネット上で知り合ってから、お互いに合わないまま関係が維持されることは、特別な理由がない限りは稀なようです。
たとえば、ゲームオタク同士なら、オフ会(SNSの特定コミュニティに所属するメンバー同士が実際に集まること)などで実際に合わずとも、ネット上だけでゲームの情報交換をずっとつづけることがあるでしょう。しかしこの状況は、マニアでないと交換できない情報の持ち主同士だからつづくのです。
 (原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』、光文社新書、2010、p.74)


これは不特定多数の参加するコミュニティではなく個人的な交流の話ですから状況は違いますが、とにかく言っておくべきは、この場合の「ゲームオタク」というのは「マニアでないと交換できない情報」を持っているようなレベルの高い人のみを指しているということです。そんな人はごく少数で、「オタク」と言っても大抵の人は、どこにでも転がっているような持ち合わせていません。「大部分が情報交換で占められ」たコミュニケーションを行っている共同体が成り立つのはレアケースでしょう。

…と、こんなそれこそどこにでも転がっているような反証を挙げるだけでは芸がないので、もう少し。
東氏は学者あるいは批評家という、まさにオリジナルな情報を自ら生み出して提供できる立場の人です。自信もオタクであることを自称しているそうですから、オタクとしてもレベルは高いのだろうと思います。だからこそ、オリジナルな情報など出せない並のオタクのことが分からなかったのではないでしょうか。
単に「オタクを分かっていない」のではなく、「分かりすぎているから分からない」という、いつもの「分かる/分からない」の問題に帰ってきます。

試しに最初の引用文から一部取り出して、「オタク」を「学者」に、「虚構」を「学問」に置き換えるとよく分かります。

学者たちは現実よりも学問のほうに強いリアリティを感じ、そのコミュニケーションもまた大部分が情報交換で占められている、言い換えれば、彼らの社交性は、親族や地域共同体のような現実的な必然で支えられているのではなく、特定の情報への関心のみで支えられている。


こういう人は確かにいますし、学者としては立派なことです。でも、これが「今の人」の典型例ということがあり得るでしょうか?
                           (芸術学3年T.Y.)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
カレンダー
01 | 2021/02 | 03
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 - - - - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
参考文献
私が展開している思考の拠り所など(一部)。
スポンサー広告