オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
借りぐらしのアリエッティ
さすがに今回ばかりはインターネットで前売券を買っておいて正解だったようで、映画館に着いた時点で数回後まで満席とのアナウンスが流れていました。と言っても、午後一の前売券を買うのに朝やれば十分でしたが。
以下、さすがに内容に触れることは続きに。と言っても、まだまとまった分析などはできず、雑感だけですが。 素晴らしい話だったのは確かです。(小人の目からすれば広大な)家の中をあちこち動き回るアリエッティ達と、病気で後半までほとんど寝ている翔の対比も、画面の動きがいいだけに見事で。小人のポットからお茶を注ぐ時に表面張力で一滴ずつ落ちてくるとかの描写も芸が細かくて良いですね(まあもちろん、細かいことを考え出すと他にも色々な問題は発生するでしょうが)。
しかし、観る前から母が口にしていた疑問なのですが、原作の舞台は思い切りイギリスで、主人公の名前「アリエッティ」もそのままなのに、なぜ舞台を日本にしたのか? というのがあります。アリエッティのお父さんは西洋人風の顔ですし。人間じゃなくて小人なんですから、どこの人に似ていようがだろうが説明を要しないと言えばそうなのですが。
現代日本の方がディテールを描きやすいのかとも思いましたが、パンフレットにある鈴木敏夫プロデューサーの話を読むと、宮崎駿氏が企画を出した時点で舞台を日本にすることは決まっていたようで、またよく分からなくなりました(宮崎監督は西洋を舞台にしたものも今までたくさん作っていますからね)。
ただ、舞台となる家が「古い洋館」ではなくどこか和洋混じった感じなのが『千と千尋の神隠し』の油屋辺りを思い出させないこともなく、今度もそういう雰囲気で行くつもりがあったのかも知れません。
さて、内容のことに触れますと、翔が小人の家の屋根を動かしてキッチンを入れ替えていく辺りはおいおいと思いました。まあ、小人の視点から見ればどうなっているかにまでは想像が及ばないのも、何とか小人にキッチンをあげたいというのも、気持ちは分かりますが。
つまるところ、アリエッティの姿を見たことから始まって、小人一家が引っ越しに追い込んだ原因も実は主として翔にある訳です。一方でアリエッティも自分から人間に接触を図ったわけでして、しかしだからこそ、少年と小人が出会い、自らの意志で事態を動かし、空回りし、別れる――という青春の一幕となっているのでしょう。
ただ、すると、「敵役」として入ってくるハルさんが今ひとつよく分からなくなりますが。「泥棒小人」なんて言ってますけど、あえて生け捕りにしようとしているのを観ると必ずしも小人に悪意を持っている訳でもないようです。パンフに書かれているように単に「好奇心旺盛なおばあさん」ということなのでしょうか。まあ、あんなものを見付けたら捕まえたい気持ちも分かります。ただ、主人の貞子さん達が小人をどう思っているか知ってその様子を伺いつつ、ひそかに(坊ちゃんを部屋に閉じ込めたりまでして)小人を捕まえようと画策しているのが、何だか得体の知れない印象を与えている気はします。
ところで、ラストの別れのシーンを観ながら気になっていたのは「手術後の翔の姿は描かれるのだろうか?」ということでしたが、結局描かれませんでしたね。
アリエッティがお母さんを助けるのを翔が手伝ったのは、自分で蒔いた種を片付けたのだとも言えますけれど、心臓の病気はそうではありません。いくら「生きる勇気をもらった」からと言って、「小人と出会って病気が治りました」では、実際に病気に苦しむ人から見れば都合のいい話以外の何物でもありません。だから、ああして終わるしかなかったのだろうと思いますね。
(もっとも、冒頭の「ぼくはあの年の夏、母の育った古い屋敷で一週間だけ過ごした」というモノローグが、その後生きた翔の回想であることを匂わせてはいますが)
(芸術学3年T.Y.) テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育
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