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「萌え」考 4.5 ~「データベース」について~

(もういいような気もしつつ、「萌え」考 4 ~萌え属性~の続きです)

ちょうど前回デ・ジ・キャラット(通常でじこ)の画像を挙げたところなので、そこから。

筆者はさきほど、でじこのデザインがまず単独で支持を集めたと記した。ではそれがとくに個性的で魅力的なものかといえば、そう指摘するのも難しい。実際にはでじこのデザインは、デザイナーの作家性を排するかのように、近年のオタク系文化で有力な要素をサンプリングし、組み合わせることで作られている。
 (『動物化するポストモダン』、pp.65-66)


言っては何ですが、ここには「こんな『とくに個性的で魅力的』とも思えないもおが人気を集めるのがなぜなのか、分からない」という悲鳴が聞こえるような気がします。それを理解しようという努力が『動物化するポストモダン』の理論体系を築かせた、というのは邪推のし過ぎでしょうか?

まあ、そういう裏の読みはさておいて、ここから東氏は「萌え要素が組み合わされていることこそが重要だ」という理屈に至り、またそのことがオタク自身によって自覚されていることの例として、検索エンジン「TINAMI」を挙げてきます。
この手のシステムならば、今ならばお絵描きサイト・pixiv辺りの方が有名かも知れません。つまり、画像にタグ(作品名やキャラクター名といった具体的なものから、「メガネ」「メイド」といった要素まで)が付いていて、それで検索できるというものですね。

しかし、これは当たり前じゃないかという気がします。
例えば、私が先日食べたを美味いと思い、(必ずしも「同じものが食べたい」ではなく)「他にもこんなものが食べたい」「もっと美味いものが食べたい」と思ったとします。その時、まずは「梨」という名前や品種名(例えば幸水)を当たっていくのではないでしょうか。しかしそうして、あらゆる梨を一括りにする名辞で検索を行うからと言って、独自の美味さを持った梨が求められていないということにはならないでしょう。

で、でじこの話に戻りますと、「そう指摘するのも難しい」というのと、「個性的で魅力的」でない、というのは話が違います。まず、猫耳やメイド服といった萌え要素が集まっていたとして、違う絵柄の持ち主が描いても、絵が下手でも、同じように人気を博したでしょうか? いくら似たような絵柄だ無個性だと言われても、(あえて人の絵を形態模写でもしない限り)絵柄は人によって皆違う、これもまた「個性」であり「オリジナリティ」です。

また、いまではでじこには「生意気でうかつ」という性格が加えられているが、この設定も最初から用意されていたものではなく、アニメ化に際して半ば自己パロディ的に付け加えられたものだ。
 (同書、pp.64-65)


これに関しても、東氏は「だからこうした設定の独自性は問題ではない」と言いたいようですが、逆方向の解釈も可能でしょう。
最初にキャラクターデザインだけで人気を博したとしても、それで十分という訳ではなく、キャラクターが生きていくためには、後から「自己パロディ的」であろうと、設定を作る必要があったのです。それぞれの設定はどこかで見たようなものかも知れませんが、そのキャラクターの歴史の中で積み重なることで「独自な設定」となっていくのであり、それがなければ「萌える対象」にすらならない抜け殻になるだけだ、と。

上記のような画像検索サイトでも、例えばメガネキャラが好きだから「メガネ」というキーワードで検索したとして、出て来る画像には気に入るものも気に入らないものもあるでしょう。ただ、気に入るものを選んで見るだけです。ここではキーワードで表せる要素には還元できない部分を各自が賞味することになります。

つまりもっと言いますと、「データベース化された萌え要素を集めて萌えキャラが作られているのであり、それ以外のオリジナリティはない」のではなくて、「共通する要素に還元できない独自な部分を切り捨てることで、データベース化が可能になる」のではないか、ということです。

なぜ私がこの辺にこだわるかと言いますと、「データベース」そのものは動かないものだからです。私がパソコンにデータを入れて、翌日には別物になっていたら壊れています。しかし実際には「萌える」行為によってデータベースそのものも更新されていることは前回指摘した通りです。
まず「萌える」という行為があってデータベース化はその結果――というのは言い過ぎで、そうして作られたデータベースが次の「萌える」活動の助けになっているのは確かとしても、まずあるのは萌える人々の活動であって、その動きを止めて断面を切り出した時に見えるのが「データベース」なのではないでしょうか。
東氏も、データベースに「物語を読み込む」(同書、p.51等)といった言い方はしていますが、データベースそのものもその一部となるような活動、という点が十分に考えらているようには見えません。

これはウェブ社会論とも関わってくるところですね。いくらインターネット上に情報があっても、それを読み、解釈する人間の活動がなければ、何にもなりません。
                           (芸術学3年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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