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芸術的価値と時間の厚み

作家・医学博士の米山公啓氏は『騙される脳 ~ブームはこうして発生する~』は、脳科学(と言ったものでしょうか)を用いて、ブームに乗せられる心理を解析した本ですが、その第五章のタイトルは「ゴッホもブランドだった!」です。
ここでは「日本人がゴッホを好きな理由」として、「一生涯で2枚しか絵が売れず、ゴーギャンとの共同生活で精神を病み、耳を切って、最後は自殺した」画家の「孤独」や「激しさ」が伝わってくる(はず)、というイメージがあること、そういう知識がまさに「クチコミマーケット」として機能し、ゴッホの絵の値段の高騰を生んだということが示されています。
これはかなりの部分、正当でしょう。しかし、以下のような記述はいかがなものでしょうか。

ですが、「苦労して描いた」というエピソードは芸術そのものとは関係がないはずです。そういう見方をするなら、美術館で絵をひとつひとつ鑑賞する前に、その画家のエピソードを知らねば理解できないということになってしまいます。芸術はそうやって楽しむものではないはずです。本来、絵は「そこにある絵だけから、私たちがどう感じるか」それが最も大切なはずです。
 (『騙される脳 ~ブームはこうして発生する~』、扶桑社新書、2007、p.151-152)


最初の方は認めます。苦労して描いたら、作品自体はつまらなくても良いということにはなりません。
しかし「そこにある絵だけから」という点は疑問です。
例えば「ヴィーナスとマルス」の物語を描いた絵画を見るに当たって、描かれている神話のエピソードに関する知識や、当時の人がそれをどのように描いていたかという描き方の知識がなくて、ちゃんと理解できるものでしょうか。(芸術作品を語る言葉とは辺りも参照)

※ もちろん(繰り返しになりますが)、そういう「描かれている内容についての知識」と「画家の人生に関する知識」は別物です。作品の評価に後者を持ち出すのが正当とは言えません(ついでに言うと、上記のような「情熱の人」「炎の画家」というゴッホ像が正しいのかという実証的な点も問題は大ありです)。

さて、米山氏は、生前のゴッホの評価は低かったし、セザンヌやルノワールといった「同時代を生きた画家たちからも惨憺たる評価だった」(同書、p.150)ことに触れます。
しかし、ゴッホが好きなのは日本人だけではありません。ゴッホより少し後の、20世紀初頭に活躍したヨーロッパの画家たちもゴッホから大きな影響を受けています。これもブームに騙されていたのでしょうか?

ここで、美術史と批評的判断で書いた話に少し関わってきますが、「今のわれわれが作品に感動するかどうか」とは別に「歴史的価値」というものを持ち込むことができるかも知れません。
つまり、ゴッホはまったく新しい絵の描き方、ひいてはものの見方をヨーロッパの絵画にもたらし、それで後世の西洋美術に大きな影響を与えたのであって、それは織田信長が天下を動かしたのと同様、かなり客観的に評価できる事実だ、と。
そして、こうしたことは、西洋絵画に関する周辺知識がなければ、分からないでしょう。

しかし、歴史的価値と現代のわれわれにとっての美的価値はまったく別なのかと言えば、それも疑問を持たざるを得ません。それでは逆に、遠く離れた時代や地域の作品に感動することがあるのはまったく説明できない事実になってしまいます

ここでまた米山氏の著作に戻りますが、「ゴッホの絵の本物を見た人はだまり、複製を見た人が賞賛した」という一節が出て来ます。「ホンモノを見た人」の例として、画家の岸田劉生などが挙げられます(同書、p.156-158)。

待ちに待った実体験のほうが感動が少ない。今まで知識として持っていた「すごいゴッホ」との落差が大きいのですから、無理もないことです。
まさに岸田劉生がゴッホの本物の絵を見て感じた落胆もそんなものだったのでしょう。岸田はその後、独自の世界を描き出しています。
しかし、一般の人はそこからの行動が違うのです。
岸田劉生のように自分なりの芸術観を持っていれば「もうゴッホから学ぶものはない」と思い、ゴッホという存在を超えたと思うのですが、一般の人はそんなふうに自分の素直な気持ちを声に出すことはありません。
 (同書、p.172-173)


しかし、こうして「ゴッホという存在を超えた」岸田劉生の「独自の世界」について、「俺は大したものだと思わない。ゴッホの方が上だ」と言う人が出てきたら、どうなるのでしょう。さらにその人も画家だったら「そういうお前はどうなんだ」……これは無限後退です。

一方で「どんな作品も感動しない人もいるし、感動しない場合もある」という経験的事実を念頭に置き、他方で「目の前の作品に価値があるか、ないか、どちらかだ」と考える限り、話は進みません。

ここでもう一度言いますが、「失望しても、見た価値はあるのが偉大な作品」です。
そもそも、現代の日本にわれわれは、15世紀イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチとも、17世紀オランダのレンブラントとも、19世紀フランスのゴッホともまったく違った経験をして生きている訳で、絵を見る目も違って当然のはずです。
毎週展覧会を見るたびに別のものの影響を受けて作風が変わっている、というのは美大・芸大生にままあることだと言いますが、17世紀のレンブラントの作風をそのまま「自分が描くべきもの」だと思っていては本当は拙いのであって、少し「遠い世界」のものだと感じる方が妥当でしょう(ちなみに、東京に比べると本学はそうやって情報に翻弄されないのが長所だと言う説もありますが、どうでしょう)。
しかし、遠くても無縁なものではなくて、そうした歴史の上に今の芸術もあるのです。
単にゴッホを見て失望したら「もうゴッホから学ぶものはない」のではなく、「失望したことによって学ぶものもありうる」のではないでしょうか。

考えてみれば、昔は全然いいと思わなかったものを久し振りに見たら良いと思ったとか(あるいはその逆も)、そういう経験はありますよね。
「今、目の前にある作品が感動を呼ぶか、呼ばないか」だけではなく、時とともに感性が変化するという時間の厚みも含めて、芸術的価値なのではないか、とりあえずそう言っておきたいと思います。
                           (芸術学3年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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