オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
価値について
正規の後期授業開始は来週からですが、今週いっぱい集中講義があるので、実質今週から授業開始です。
これが終わるのが2時半、帰り道は1時間ほどですが、夕食の買い物などしながら帰るともう4時頃、パソコンのチェックやら読書やらをしつつ、疲れたので寝ていたりするともう6時半頃で、そろそろ夕食の準備に取りかかる時間です。そして夕食が済んで気が付くと…今こんな記事を書いていたり、色々です。
先日、芸術的価値の話などをしたので、そこから広く価値についての話でも。
まず経済学の古典的な考え方として、使用価値と交換価値の区別があります。
食べ物は食べられる、衣服は着て、寒さから身を守ったり外見を飾ったりできる、etc...というのが使用価値ですね。
対して、他のものと交換できるというのが交換価値です。食べ物の食べ物としての価値は衣服とは比較のしようがないのであって(どちらも必要です)、そういう意味で使用価値は交換価値に還元できません。そして、交換価値だけがあって使用価値がないのが「お金」です(お金を「使用する」と日常的に言いますが、お金は食べることも着ることもできず、他の財と交換するしか使い道がないので、交換価値と区別される使用価値はないのです)。
そこで、まず使用価値があって、お互いが必要なものを持っている――例えば食べ物を持っているが衣服が足りない人と衣服を持っているが食べ物がない人がいる――場合、それを交換する必要がある、そこで交換価値というものが出て来る……という単純な考え方には、疑問の余地があります。この点に関して興味深い事実を示し、現代思想にも大きな影響を与えたものとして、マルセル・モース(1872~1950)の『贈与論』があります。
「タオンガ(taonga)」は、マオリ族の法や宗教の考え方では、人、クラン、土地に強く結びついている。それは、マナ、つまり呪術的、宗教的、霊的な力を媒介するものである。G・グレーズとC・ディヴィスによって幸いにも採集された諺によると、タオンガは、それを受け取った人を殺すように祈られる。したがって、法、とりわけ返礼をする義務が守られない時、タオンガはそのような恐ろしい力を内蔵しているとされる。
(マルセル・モース『贈与論』、ちくま学芸文庫、2009、p.33)
つまり、贈り物にはお礼をしないと死ぬのです。呪いで。
さらに、マオリ族のインフォーマント(情報提供者)による以下のような談話が紹介されます。
仮にあなたがある品物(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとします。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(「ウトゥ(utu)」)として、何かの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼の私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(あなたのところから来た)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返ししなければなりません。私としましては、これらのタオンガが望ましいもの(rawe)であっても、望ましくないもの(kino)であっても、それをしまっておくのは正しい(tika)とは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければらないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことがおこり、死ぬことになるでしょう。このようなものがハウ、個人の所有物のハウ、タオンガのハウ、森のハウなのです。Kati ena(この問題についてはもう十分です)。
(同書、pp.34-35)
そして、まずは最近触れた内田樹氏の著作にこの話に関する解釈が載っていたので、それを取り上げておきます。
このマオリ族のインフォーマントのハウについての証言には(いやに入り組んだ話に聞こえるでしょうが)非常に重要なことがいくつか含まれています。
それは贈り物(タオンガ)を受け取った人間は、それをくれた人間に直接お返し(ウトゥ)を返礼するのではないということです。いいものをもらったから「ありがとう」と直接返礼をするわけではないのです。何かをもらった。それを次の人にあげた。そしたら、その返礼が来た。返礼を受け取ったときに、はじめて自分が「パス」したものが「贈り物」であったことに気づく。そういう順番でことは起きています。受け取った返礼は自分の手元にとどめてはならない。返礼は自分のところに退蔵せず、最初に送り主に差し戻されなければならない。
このプロセスは非常に長いものになる可能性があります。(……)
たぶんこのインフォーマントも、最初に「あなた」から品物を受け取ったとき、別にそれほど価値があるものだと思わなかったのでしょう。だから「あなた」に返礼もせずに、そのまま誰かに「ほい」とあげてしまった。「私」に「あなた」に対する返礼義務が発生したのは、その品物に価値があると思い、返礼義務を感じた第三者の出現以後です。
あなたが僕にきらきら光る石をくれた。「あ、ども」と受け取ったけれど、別に要らないので、友だちに「あ、これやるわ」と言ってあげた。何人かの手を経巡った後に、「げ、これはダイヤモンドだ」と気づいた人がいて、「このような貴重なものを、とてもただではいただけません」ということで代価を払うことにした。それが回り回って、僕のところまで届いたこれは僕が退蔵してよいはずのものではないから、さらにあなたに戻される。そういう順序です。
(内田樹『街場のメディア論』、光文社新書、2010、pp.170-172)
モースが「第三者の介入」を「不明な点」(上記『贈与論』、p.35)として、もっぱら交換活動を支えるものとしての「霊的な力」の観念に焦点を当てているのに対し、内田氏の解釈は「第三者の介入」を重視している訳ですが、呪術などを持ち出さない分、一般人にはこの方が馴染みやすいかも知れません。しかもさすが、きわめて明快です。
こうして、交換の後で初めて価値が生成される、これが第一点です。
(続く)
(芸術学3年T.Y.)
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