オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
罪と言い訳
なるほど、旧約聖書の『創世記』に曰く、アダムとイヴは蛇にそそのかされて、神から「食べてはいけない」と言われていた「善悪を知る木の実」を食べてしまいました。神から「なぜ食べたのか」と問われて、アダムは答えます。
「イヴに勧められました」
そこで神はイヴに「なぜ勧めたのか」と問います。イヴの答えは、
「蛇に勧められました」
しかし、ここで描かれているのは「だから蛇が悪い」ということではなく、「人はこうして“言い訳をすること”を覚えた」ということではないでしょうか。
罪というものについて深い分析を行った哲学者の言を引きましょう。
あからさまにいえば、わたしは蛇のことなどとり立てて考えているわけではない。それに蛇については、まったく別の難点がある。それは誘惑をほかからやってこさせるという難点である。これは聖書の教え、神は何ものをも誘惑しないし、また何ものによっても誘惑されない、すべてのものは自分自身によって誘惑される、というヤコブの有名な古典的な箇所にまっこうから対立する。もしも蛇に人間を誘惑させることによって神をかばいえたと信じ、そのかぎりでは「神は何ものをも誘惑しない」というヤコブと一致していると思い込むなら、そのときは次につづく、神は何ものによっても誘惑されないという句と矛盾する。なぜなら、人間にたいする蛇の悪だくみは、とりもなおさず神と人間との関係に割り込むことによって間接に神を誘惑することになるからである。さらにまた、各人は自分自身に誘惑されるという第三の句とも矛盾する。
(キルケゴール『不安の概念』田淵義三郎訳、『世界の名著40』所収、中央公論社、1966、pp.245-246)
罪は神のせいではない、裏を返せば、神と言えども人の罪の責任を引き受けることはできません。
まあ、キルケゴールのような厳しさを徹底して生きるのは困難です。
人は自分を守るために、何よりも自分に対して言い訳をします。それも良いでしょう。
しかし、社会がそれを認めてしまうのは、責任ある「個人」を否定することであって、決してやってはいけないことです。
さて、こう言った上で青少年健全育成云々の話に戻ってくると、「まだ未発達な子どもは、一人前の“個人”としては認められない」という話が出てきます。「青少年は何が悪いのか判断する能力を持っていないから、大人が何を与えるか決めるのだ」というわけです。
この論法は一部では正しい。子どもには認められない権利もあります。「こんなものは自分の子どもには見せない」と言い、自分の子どもがそれを持っていたら取り上げる親は、ごくまともです。
しかし、まず問題なのは、何歳から「大人」なのかはっきりしない、法律によってもまちまちだ、ということです。
そしてさらなる問題を。
「判断能力を持たない」子どもとの対比で、自分は「判断能力を持っている」と思うなら、思い上がりも甚だしいことです。まさに無知の知が足りません。
大人だって周囲に影響を受け、誘惑され、判断を誤ります。そこは人間たるもの誰しも同じです。
「こんなものは自分の子どもには見せない」と言っている親も、間違っているかも知れないのです。社会公認の「唯一の正しい基準」なんかを決めてしまうと、取り返しがつきません。
(芸術学3年T.Y..)
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