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ガダラの豚

おや、今日またブログのアクセスカウンターが止まってましたか?

同じ件の話、しかもあまり愉快でもない話題を続けるのもいかがと思わないではないのですが、少しずつ別の視点が思い浮かぶこともあり、罪と言い訳から続けます。

まずちょっと前回の内容に言い添えておきますが、私は決して「厳罰化」を唱えているわけではありません。罪が罪であると認めることと、それにどんな刑罰を与えるかはまったく別の問題です。

「わいせつコミック」裁判―松文館事件の全貌!「わいせつコミック」裁判―松文館事件の全貌!
(2004/01)
長岡 義幸

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わいせつ罪で漫画が摘発されたという、表現規制の歴史上も重要な意義をもつであろう事件の記録。著者は先に触れた『マンガはなぜ規制されるのか』の著者です。

実際の事件の経過についてはこの本を読んでいただけばわかりますが、この裁判では社会学者・宮台真司氏や精神科医・斉藤環氏といった人たちも弁護側の証人として法廷に立ちました。
その斉藤環の著作も先日引用したばかりですが、今回はまず、直接この事件に関わる部分を引くことにします。

 判決文から一部抜粋しよう。「しかしながら、わいせつ性の判断に際し問題とされる健全な社会通念とは、前記チャタレー事件判決が判示するように、社会を構成する個々人の認識の集合ないしその平均値ではなく、これを超えた集団意識であり、仮にこれに反対の認識をもつ個々人がいたとしても、その一事をもって否定されるべき筋合いのものではなく、ここでいう健全な社会通念がいかなるものであるかの判断は、裁判所にゆだねられた法かいしゃくないし法的価値判断というべきである」
 これを読む限りでは、この裁判は最初から結論ありきで進められていたと判断するほかはない。
 ……判決文の引用箇所からも明白であるように、「有害なわいせつ性」を決定づける「社会通念」なるものは、裁判所の判断に委ねられることとなっている。言い換えるなら、ある表現が有害であるか否かは、検証抜きに裁判官の主観で決めてよい、という判断である。この一点で、弁護側の準備した膨大な反論は、すべて徒労と化した。
  (斉藤環『「負けた」教の信者たち ニート・ひきこもり社会論』、中公新書ラクレ、2005、pp.181-184)


「チャタレー事件」というのは、D・H・ローレンス『チャタレイ夫人の恋人』という小説の翻訳が猥褻罪に問われた事件のことで、1952年のことです(「表現の自由」に関わる裁判の例として、「公民」の教科書にも載っている話です。今見ると大した内容に見えませんが)。
つまり、これは昔からのことで、昨日今日におかしくなったわけではないようですが、それにしてもおかしいことに変わりはありません。

「集団意識」とは何でしょうか
「集合的意識」だったらデュルケム社会学辺りの用語だと思いますが。要するに、集団が個人レベルの判断では考えられないような動きをすることを説明する概念ですね。
いずれにせよ、「個々人の認識」を「超えた」ものなのは、判決文からも確かです。

さて、なぜ個人である裁判官がその「集団意識」にアクセスできるのでしょうか?

この文面を読む限り、裁判官は“個人を超えた集団”と同一視されることになります。
「私は集団である」――奇妙な主張です。こんなことを言えるのは新約聖書に登場する悪霊(=悪魔)くらいではないでしょうか。

『マルコによる福音書』に曰く――ある時、イエスがゲラサ(写本によってはガダラ)に行くと、悪霊に取り憑かれた男が暴れていた。イエスに「この男から出て行け」と言われた悪霊は助けを乞います。

そしてイエスは彼に問うた。
「おまえの名は何と言うか」
すると彼らは答えた。
「我が名は軍団(レギオン)。我々は大勢いるからだ」
 (『マルコによる福音書』、第5章第9節)


かくして、男から追い出された悪霊たちはそばにいた2000頭の豚の群れに取り憑き、その豚たちはことごとく海に飛び込んで死んでしまいます。

この箇所にいかなる神学的解釈があるのかはよく知りません。しかし、この悪霊が「悪魔的」である所以は、こうして読むと分かる気がします。
今は原文のギリシア語までは確認できませんが、「我が名は…」と単数形なのが、次の瞬間「我々は…」となるのが、いかにも異常なのです。
「私は軍団である」――この台詞は、「自分は多数派を味方につけている」と、数を恃む権力者を思い起こさせます。

しかし、本当は個人が軍団であるはずはありません

たとえば、近藤玲子さんと滝川敏夫と吉岡清美がいる部屋に筆者が入って行き、「近藤くん、滝川くん、吉岡さん、僕、『人間くん』がいるから、全部で五人いる」などと真顔で言いだしたら、私は残念ながら発狂しているということになろう。ましては、自分のことを「僕は『人間くん』である」などと言い出したら、多少有無を言わさぬ処置が施されることになるかもしれない。
 (佐々木中『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』、以文社、2008、p.253)


この「個」と「集団」の境の侵犯から、全ての暴虐が生まれます。
                           (芸術学3年T.Y..)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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