オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
別に要らないものは要らない
まあその場合、他のブログもポイントは下がるはずなんですが。
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さて、金は天下の回りもの、という格言は経済学の要諦でもあります。
ある人や企業の収入は、他の誰かがその人や企業から何かを買ったお金です。全体としては消費が多ければ、収入も多いことになります。(海外貿易を考えると国全体でも「閉じた全体」と考えることはできず、全体と言えるのは「全世界」だけですが、その点はひとまずおいておきましょう。以下は極めて大雑把な話です)
ということは、人々の平均収入が2倍になって物価も2倍になれば、経済規模が2倍に成長したということであり、良いこと…でしょうか?
ここが問題おおありで、“平均”収入ということは、一部の金持ちの収入が伸びて多くの貧乏人の収入はあまり伸びていないかも知れません。その場合、貧乏人は物価が上がった分生活が苦しくなることでしょう。
「格差社会」というのも、一面ではそういう問題なのではないかと思います(まあ何でも一律に物価が上がっているわけでもないので、そればかりでもありませんが。卵なんで何十年あまり値段が変わっていないので「物価の優等生」なんて言われていますね。変わらないのが優等生なのかどうかはともかく)。
かつて「一億総中流社会」と言われたのは、そうした格差をあまり生じさせることなく、皆の収入が伸びるという形で経済成長を果たした、という(稀有な)事態に他なりません。
しかも今では、それはもう難しいわけです。昔の夢を見ていても始まりません。
とすれば、誰もが最低限生活に困らないよう、生活必需品の物価は(一番貧しい層の収入の伸び以上には)上がらず、贅沢品の流通が増えるという形で経済成長することが望ましいわけです。
しかしその内、「適度に生活できているんだから、もうこれ以上の贅沢は要らない」と人が言い出したら…私には責めることはできません。
そもそも、なぜ経済成長しなければいけないのか、と言われると…
まあ、多くの制度が経済成長を前提にしていることは確かです。例えば年功序列の昇進制度(当然ながら上司よりも下の人間の方が多く、それがある年齢で皆昇進するのであれば、新たに下に入ってくる人間がだんだん増えていかなければいけません)。
経済学理論にしてからが、「経済規模の縮小」を念頭に置いたものはありません。
しかしそろそろ、考え方を変えねばならないのではないか、といことです。
資源は有限ですしね。物質的な資源に頼らない部分を拡大していっても「そんなものはもういらない」と思われたらそこまでですよ。
まあ、かく言う私はまだまだ欲しいものがありますが。
本を買うお金より先に、置き場所と家の床が問題かな…
(芸術学3年T.Y.) テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育
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