オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
「魔法少女まどか☆マギカ」――総合芸術としての
「魔法少女」ものの常識を覆すダークな展開とテーマで人々を驚愕させた作品ですね。現在、震災関係でお休み中ですが…
色々伏線が廻らされていて、謎解きの要素もありますが、今回はそちらに――ストーリー面には触れません。
…とは言え、このブログが映像作品を扱う上での一つのネックは、映像を取り込んで掲載する技術がないことでして(技術そのものは調べれば分かるでしょうが、我が家のPCのスペックを考えると困難が多そうですし)、映像そのものの妙は、実物を見ていただかないとなかなか分かりません。
まあ、興味のある方はニコニコチャンネルでの配信画像(有料)でも参照してみてください。
この作品のストーリー面以外でまず目を引くのは、そのある種異様な映像のこだわりでしょう。
なぜか大量の鏡に囲まれた主人公の家の洗面所、そこで繰り返される合わせ鏡の描写、はたまた四方を透明なガラスで囲まれた学校の教室、それに、敵である「魔女」の結界の中のシュールな空間…
そのいずれにも共通しているのは、徹底した3DCGの使用です。
今時、大概のTV番組で随所にCGは使われていますが、アニメにおける3DCGに関しては一筋縄ではいかない事情があります。
ポリゴンで立体造形が作られたものが回転して、立体であるところを見せると、平面の絵との違いは一目で分かります。そして、平面の絵に慣れてきた我々アニメ視聴者としては、これに少なからず違和感を感じるんですね。(最近の世代は少しずつ変わってきているという話もありますが)
いまやセル画ベースのアニメ作品のほうが少ないという話も聞くほど、アニメ業界のデジタル化は進んでいるが、ここにも奇妙な逆転が見られる。CGの滑らかな動きが嫌われ、アニメの不連続性をはらんだ動きが求められるのだ。セルシェーダーなどの変換ソフトによって、見た目にはセル画と区別がつかないほど巧みに製作されるCGアニメ。そこではもはや、CGであるという特権はほとんど消失しており、せいぜい文章を手書きにするかワープロで書くかという程度の違いしかない。
(斉藤環『メディアは存在しない』、NTT出版、2007、p.31)
もちろん、キャラクターに比べれば背景の建物や機械は、CGの違和感と言ってもずっと少ないものですが、日常シーンの背景まで3Dで作りこんでいるのは、決してよくあることではないように思われます。
しかも、これがやたらと立体を主張してきます。画面の奥へと鏡像が続く合わせ鏡にしても然り、人物が歩いている後ろを変化のない背景がスクロールしていくだけのシーンでも、魚眼レンズで撮ったように、画面の端では小さい背景のモチーフが画面中央に移動するにつれ急激に大きくなり、そしてまた小さくなって反対側の画面端に消えていきます。
しかし、人物の方は普通のアニメ絵です。

(CDジャケットより)
この可愛らしい絵柄と内容のダークさのギャップが強烈ですが、それはさておき、

顔の輪郭線の太さを強調するためか、輪郭線そのものがさらに二本の線に挟まれた色面になっています。瞳に入る斜線も漫画のペン画的な表現ですし、これが平面の絵であることを強調しているかのようです。
さらに、敵の「魔女」とその空間は、まるで落書きかコラージュのようになります。影絵だったこともありましたね。一番多いのは「コラージュ」的なもので、姿がグロテスクなのもさることながら、どこかから複製図版を切り抜いてきて貼り合わせて、それを動かしてアナログなコマ撮りアニメを作っているような感じの、横から見たらどうなっているのかも分からない平面的な造形で、しかも画質も悪く、ギクシャクした動きを見せます。
作品に対する考察としての妥当性はさておき、率直な感想を言えば――数学用語とスラングの二重の意味を込めて――これは二次元と三次元の闘争だ、と思いましたね。
…とは言え、人物の方も平面性を強調しているわけですから、単純に「二次元=敵」というわけではありません。
「二次元」=「像=イメージの世界」と考えれば、どうでしょう。人間は元々、半分イメージの世界に生きている存在である、と。――我々自身が二次元である。
これは本作の設定に照らし合わせても無理のある見方ではなさそうです。序盤で語られる設定だけを挙げても、「魔法少女」は祈りで力を得るのに対し、「魔女」は呪いを振り撒き、人間を操って自殺や犯罪を行わせるわけですから、舞台が極めて精神的な――イマジナルな世界であるのは事実でしょう。
もう一つ、本作が強烈に喚起するイメージは「ゴシック」と「シュルレアリスム」ですね。
たとえば、どういうわけか学校の屋上のシーンでは、校舎の塔がゴシックの大聖堂のような物々しい外見をしているのが見えます。シリアスな会話シーンで入るBGMが荘厳なコーラスになっているのも何やら聖歌隊を思わせます(今回記事のタイトルも「音楽」との組み合わせを念頭に置いてのものです)。
はたまた、病院のエレベーターで百六十何階というとんでもない階数のボタンが見えた後、その建物の屋上に出ると、屋上の手摺りに植物文様の装飾がなされていたり(植物文様そのものは、ゴシックのものではありませんが)。
シュルレアリスムについては、ダリやマグリットのような夢幻的なイメージも指摘されているようですが、私としてはむしろ、上で触れたコラージュの描写がエルンスト辺りのコラージュを強く思い起こさせますね。
計画を変更し、また付け足して、様々な時代の様式を織り交ぜつつ、何百年もかけて建設され、果てしなく天へと伸びる運動を続けるゴシックの大聖堂――三次元の世界。

(酒井建『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』、ちくま学芸文庫、2006、p.227より)
商業的に無数に同じものが複製され、反復される印刷物の図版、そしてそれを組み合わせて、思いがけない組み合わせから新たなイメージを見出すシュルレアリスムのコラージュ――平面の世界。
しかし、「反復」と「そこからグロテスクなイメージを生み出す」という点において、両者は存外近いのかも知れません。だからこそ、このゴシックな都市の下には「魔女」の世界が生じるのだと。
歴史的にも(大雑把に言えば)、ゴシック教会の装飾は明らかに異教的なイメージを取り込んでいるのですが、ゴシック時代の後期――つまりの中世末――は、次第に異教的なものの排除が進み、そこから「魔女」というレッテルが生まれた時代ですからね、ぴったりです。
(芸術学3年T.Y.)
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