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総合芸術と批評

以前、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」について触れた記事で、「総合芸術」等と言いました(ただでさえサブカルチャーを「芸術」呼ばわりすることは賛否両論なので、ともすれば挑発的にも見える表現でしたが)。
この表現は大杉重男氏(文芸批評家)が「帝国のアニメ・アニメの帝国――『千と千尋の神隠し』についての幾つかの感想」(2001)で用いていたものから…とおもっていたのですが、当の大杉氏の記事を読み返してみると、趣向はかなり違ったようで。

とかく、まずはっきりしているのは、大杉氏の言う「総合芸術」のモデルはワーグナーにあるということです。

 花田〔清輝〕によれば十九世紀のワーグナーから二十世紀のミュージカルに至る「総合芸術」は「日常性からの脱出と、善悪の彼岸への飛躍」において戦争的であると同時に革命的でもある(「二つの絵」、〔『近代の超克』〕所収)。言い換えればファシズム的であると同時にスターリニズム的であり、全体主義的である。宮崎アニメもまた「総合芸術」である限りにおいて全体主義的であり、とりわけ『神隠し』は全体主義的である。花田は「わたしは、フィナーレで、それまで徹底的にいがみ合ってきた善玉と悪玉とが手に手をとって、歌ったり、踊ったりしはじめると、おそろしく幸福な気持にならないわけにはいかないのである」とミュージカルの麻痺的幸福を語っているが、『神隠し』の観客も、湯婆婆以下の油屋の者たちが善玉も悪玉も関係なく「大当たり」と千尋を祝福するとき、同じ幸福を味わうのかもしれない。これはイデオロギーということとは関係のない、感性の水準における全体主義というべきものである。
  (大杉重男<「帝国のアニメ・アニメの帝国――『千と千尋の神隠し』についての幾つかの感想」『ユリイカ 臨時増刊号 宮崎駿[千と千尋の神隠し]の世界』、青土社、2001、pp.95-96)


「全体主義」「ファシズム」「スターリニズム」かなり攻撃的にも見える言葉が見られます。実際、大杉氏は、「10歳の子どもたちのためにこのアニメを作った」という旨の宮崎監督の発言は「転倒の中にある」ものとし、「『子供の幸せになった顔』は『大人』が自己の願望を投影した鏡像に過ぎない」と喝破します。その前に「『真の人間』『真の子ども』を構想する教育者・児童文学者はそのような“独裁者”でしかありえない」という柄谷行人の言を引用しているのを見れば、この「転倒」が全体主義と結び付いているのは明瞭でしょう(同書、pp.98-99)。

が、こうした言葉がただ批判的な意味で使われているかと言えば、そうでもありません。「しかしこのような批判は、宮崎アニメに対する本質的な批判とはならない」のは、大杉氏も承知の上です。

 「子供のための文学」が転倒であるのは、文学がそもそも大人のためのジャンルであるからだが、アニメはそもそも子供のためのジャンルとして始まったのであり、よって「子供のため」とわざわざ断る必要はない。もしアニメにおいて転倒があるとすれば、なぜそれに大人もまた魅了されてしまうのかということにある。
 (同書、p.99)


他にも、カオナシに限らず「アニメのキャラクターはすべて〔声優の〕声を借りることによってのみ言葉を発することのできる『己というものを持たない悲しい存在』である」ことなど、雑多なネタがこの記事にはちりばめられていて、容易な要約は困難ですが、ひとまず記事の締めの部分を引用しておきましょう(今回、引用が長いですが)。

 いずれにせよアニメは個人の産物ではなく、多数の人々の雑多な意志が混入したこの意味でも総合芸術である。宮崎アニメが他のアニメに比べて作家清華強いことは確かだが、『神隠し』はパンフレットに載った作画監督のインタヴューに見られるように、「異物」の混入が顕著に見える。湯婆婆の「カメハメ波」もどき(?)のようなオタク的ギャグもそうだし、「美少女」の代わりにハクが「美少年」として描かれているのも今までの宮崎アニメにはなかった気がする。そしてこのようなある意味で弛緩した雑駁さを、「日本」あるいは「帝国」的なイメージが総合し、一つの世界にまとめている。それは二十一世紀初頭の日本におけるほとんど唯一の国民的想像力であるが(もっとも宮崎アニメ以外のアニメは総合芸術ではなく、アニメという一ジャンルにとどまったマイナーな存在である)、このワーグナー的全体性に対してニーチェ的な亀裂を入れるべき批評の言語はまだ見出されていない。そして見出されない限りにおいて、私たちはまだ当分アニメを見続け、デカダンスの快楽に耽り続けることになるだろう。
 (同書、p.99)


この状況――批評の言語の不足――は、10年経った今でもさほど変わっていないように思われ
ます。

もちろん、喜劇の評論自体は笑う対象ではないのと同様に、批評が批評される作品のように面白く、興奮を引き起こす必要はありません。しかし、作品のあり方に「亀裂を入れる」ような批評が可能か――
別に、世にたくさんあるサブカルチャー評論が全てつまらないというわけではありませんし、普通に見ていては気付かないことを発見させ、作品をさらに楽しむ助けとなるような評論もあります。フロの評論家だけではありません。インターネットの発達で、アマチュアによる評論は世に溢れ、掲示板で議論が行われている――時にはそれらが参考になることもあります。
が、作品の存在感に対して、まだまだ批評は弱い、と感じざるを得ません。



ああ、自ら「批評」を名乗るのも何ですが(そう名乗ることは可能だとしても、世界中で何十人も読んでいない素人評ですし)、この流れで私自身の(アニメに限らず、何かの作品について語る時の)姿勢も一応述べておこうと思います。
「作者の意図」を掘り起こしたりすることを私が目指していないのはお分かりと思います。むしろ過剰読み込みみたいなことも多いですね。作者自身気付いていることも気付いていなかったことも含めて、作品から何を掘り起こせるか、というのが楽しみですから。
そして、好きな作品であっても何か書くとは限りません。書くのは、内容が書かれることを求めた(と感じられた)時だけです。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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