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作画への挑戦

トップに置いている記事に結構な数の拍手が付いているのを見ると、新規で見てくれた方がそれだけいるということでしょうか? その分下の記事は見ていただけていない可能性もある気もしますが、ここのところそれほどのことは書いていないと思うので、まあいいでしょうか。


少し前、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の映像に注目しましたが、この時の論には自分でもまだあまり納得していません。「二次元と三次元」に関する論などは特に。
まったく、語れるネタは実に多いアニメなのですが、勉強して考えを練っている余裕がないのも事実ですね。

とりあえず、引き続き映像の話――特に、前回も触れましたが「コラージュ」的な表現に着目してみたいと思います。
西洋美術にコラージュという表現が取り入れられたのは20世紀初頭のことです。そして、フランスの詩人ルイ・アラゴンが1932年に「侮蔑の絵画」と題したエッセイでもっぱらコラージュを論じていました。この詩的な文章の意を汲める自身はあまりありませんが、参考にしてみたく思い、断片的にも引いてみることにします。

……デュシャンとピカビアとが、(……)個人性に対して訴訟を起こすだろうということは依然として事実である。この訴訟の諸段階、ジョコンダ〔=モナ・リザ〕に口髭をつけて署名したデュシャン、辻便所に署名したクラウァン、インクの汚みに署名して聖母マリアという題をつけたピカビアは、私にとって、貼付〔=コラージュ〕の最初に現われた身振りの論理的結果であると思える。今主張されていることは、貼付におけるように技巧の否定であって、それに技巧的個性の否定が加えられるのである。絵画は、もし未だそう呼ばなければならないならばもはや、発生に等しい神秘な物理的血族関係によってその画布に結ばれてはいない。そしてこれらの否定から、一つの決定的な観念、選択の個性と呼ばれているものが生ずる。……
 疑いもなく、ピカビアが、彼が署名したインクの汚みについて語った時、とばっちりの不可模倣性に注意を惹いたのであった。
 ……
 ……芸術家がそれ以上還元することのできない個人主義であっても、個人を無視し、彼等の思想の時期を透して、全く一時的の方法でしか人間の仲介者を借りない広大な理性を吾々が追求することができるという事実から、芸術は真に個人的でなくなったということが指示されればよいのだ、……
 (ルイ・アラゴン「侮蔑の絵画」『コレクション瀧口修造 11』pp.290-293、ただし仮名遣いや固有名詞の表記は一部改めた)


ここには、芸術家の仕事は「創造する」ことではなく、現実を突き詰めたところにあるものを「発見する」ことだというシュルレアリスムの考えが反映されています。コラージュというのは、既存の図版の中に新たなイメージを発見する作業に他ならない、ということです。
だから――恐らくは――絵画のあり方への挑戦という意味を込めて(決して、失礼だとかいう非難の意味ではなく)「侮蔑」と言っているのでしょう。

ちなみに、「モナ・リザに口髭をつけて署名したデュシャン」とは以下の作品のこと。本当に絵葉書の複製図版に落書きしただけの代物ですね。
デュシャン L.H.O.O.Q.
 (マルセル・デュシャン《L.H.O.O.Q.》)

 恐らく最も極端に解釈を侮蔑しているのはサルバドール・ダリによるコラージュの使用であろう。彼は虫眼鏡で描く、彼は着色石版画をその効果の百発百中であるように模倣することができる。貼られた着色石版画の部分が描かれたように見えるのに、描かれた部分は貼られたようなのである。彼はそれによって眼をごまかそうとするのだろうか、また惹き起こされた五入をよろこんでいるのだろうか? 人はそれを考えることはできる、しかも模倣することの不可能なものに直面した画家の絶望にも全部表現されて終ったものに対する彼の怠慢にも帰着しない、この二重の戯れを解釈しないでも、それは差し支えがないのだ。……もしダリの絵画について、心理的な意図によってその取り扱いをこころみようとするならば、彼の絵の各々が一つの小説(ロマン)であると考えなければならないだろう。それによって、ダリもまた反絵画的なエスプリに、最近画家たちを、次いで批評家たちを泣かせ、今日では絵画を侵略したそのエスプリに結ばれている。
 (同書、pp.300-301)


ここで言われているダリの作品とは、以下のようなものでしょう。
ダリ《船》
 (サルバドール・ダリ《船》)

これの元絵は↓の版画で、そこに水彩で加筆しています。しかし、実物を間近で見ても、本当にどこまでが元の版画でどこからが加筆部分なのか判別が付きません。驚異の技です。
ドーソン《風と太陽…稲妻》
 (モンタギュー・ドーソン《風と太陽…稲妻》)

既製品と手業の混交・逆転。まさしく侮蔑。

「まどか☆マギカ」に話を戻しますと、「コラージュ的な表現」も実はアニメーターが作画して作っており、コマ撮りアニメのようなぎこちない動きも無論、意図的なものです。つまりコラージュを模したオリジナルという、さらに入り組んだ状況になっています。
そもそも、背景が書き割りでなく徹底して「三次元」を主張する一方、人物は二次元性を強調され、よりにもよってアクションシーンでは落書きがコラージュのようなペラペラな相手とは、まさにアニメ画像というものの逆転、
ラジカルな挑戦と思われます。

「まどか☆マギカ」には「逆転」を思わせるモチーフが多いのも、つとに指摘されているところですね。
人物名も「美樹さやか」「暁美ほむら」「巴マミ」…と、姓名逆転できそうな、もっと広く言えば名前としても使えそうな姓が多いですし、主人公の家族は母がキャリアウーマンとして働いていて父が主夫(らしい)だったりと。それにしばしば強調される鏡の描写……
そして私には、全編の映像そのものが、逆転の産物ではないかと思えるのです。

そこに意味を読み込もうとする「解釈」の作業もまた、アラゴンの言を借りれば、「侮蔑」されているのでしょうか?
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
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