オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
個体化の原理と恐ろしいマスコット
作品に興味のある方はニコニコチャンネルの配信画像を参照。
以下、前回に引き続きネタバレあり。
色々な意味で「魔法少女もの」の通年を覆し、様々な形の逆転を見せたこの作品ですが、マスコットのキュウべぇにしてもそれは然りで、「魔法少女のマスコット」のイメージに挑戦する存在です。
画像が用意できないのが残念ですが…
まあパロディ画像等も多いですけれど、Googleでもある程度は見られます。 →キュウべぇ
さて、まず一般的な「魔法少女のマスコット」のイメージと言うと…
1. それぞれの魔法少女、あるいは主人公のみに付いてくる付属品
2. (動物の)ぬいぐるみのような可愛い姿
3. 言葉を喋る
4. ついでにやたらと人間的である(その結果、しばしば余計なことをやったり怠けていたりと「ウザい」)。
まあ、全てに当てはまるとは言いませんが、おおむねこんな感じではないかと。
現在だと「プリキュア」シリーズにも毎回そんなのがいます。
キュウべぇの場合、2の外見は当てはまると言ってよいでしょう。
しかしまず1が違います。前回、基本設定として述べた通り、すべての魔法少女はキュウべぇと契約して魔法少女になるのです。だから魔法少女同士で敵対している時でも、両方の魔法少女のところにキュウべえは現れ、話しかけます。この時点で何やら不穏ですね。
確かに、前半にはキュウべぇはまどかの肩に乗ってついてきたり、まどかの家でくつろいでいたりしましたが、これはまどかを魔法少女にするべく付きまとっていただけです。
それともう一つ、妙な設定がありまして、魔法少女とその候補生以外の普通の人間には姿が見えないんですね。鏡の中にだけ見えるシーンもあります。
魔法少女のマスコットはその外見を利用して、ただの動物もしくはぬいぐるみのフリをしているというものが多いのです。そしてこのアニメでも、まどかの部屋にはぬいぐるみがいくつも並んでいて、その中にいて動かないとキュウべぇもただのぬいぐるみにも見えます。が、そもそも常人には見えないのなら、この演出は無駄です。
3の「言葉を喋る」というのは当てはまりはしますが、ただすべてテレパシーを使っているため、口を一切動かさずに喋ります。何だか気持ち悪い。キュウべぇが中継すれば(まだ魔法少女になっていなくても)人間同士でもテレパシーで会話できるという便利な設定ではありますが。
そして4…これはまったく当てはまりません。喋るにも顔をまったく動かさないくらいですから、表情と言えばせいぜい洗面器の風呂に入っている時の気持ち良さそうな表情くらいで無表情。人間的な仕草もありません。
実は後半、真相が明らかになるについれて、キュウべぇこそいわば諸悪の根源だということが判明してくるのでして、その意味では不快とかそういういうレベルではないのですが、賑やかしのように余計なことをする「ウザさ」はキュウべぇには希薄です。
その真相についてはまたの機会に述べることにして、今回はキュウべぇそのものに関する話をもう少し。
第8話でキュウべぇは蜂の巣にされて殺されますが、直後に平然と新しいキュウべぇが現れます。その時に曰く、
「代わりはいくらでもいるけど、むやみに殺されたらもったいないよ」
さらにその次の回では、「〔キミたち人間は〕地球上に69億人もいて、しかも増えつづけてるのに、どうして一個体の死でそんなに騒ぐのか理解できないよ」という旨の発言。
ここまで見れば明らかで、キュウべぇ(達)には「個体」の概念がありません。
なぜ? と言えば、それはテレパシーを使っているからではないでしょうか。
テレパシーで完全に思考も記憶も共有しているのであれば、複数の個体にまたがって精神は「一つ」であり、各個体は端末のようなものに過ぎないことになるでしょうから。
だからキュウべぇはいかなる共感も持ちません。思考も感情も完全に共有してしまえば、そこにはただ一人の「私」がいるだけです。「他者との共感」はありえません。
他人の痛みを感じる、他人の感情を感じる――それが不可能だ、というわけではありません。しかし同時に、それにもかかわらず自他が分かたれていてこそ「共感」が成り立つのです。
そもそもキュウべぇには感情がありません。彼らは感情を利用する技術を生み出したけれど、自分たちには感情がなかったから人類に目を付けた、とはっきり言っています。
ここで、そもそも共感可能性のない感情がありえるのか、と考えると、われわれが感情を持っているのも、我々が“個体化された”存在だからではないか、と考えられます。
「一なる私」しかいなければ、感情もありえないでしょう。
だからキュウべぇは恐ろしい。
人間臭さがなく、「動物並に」共感不可能であるにもかかわらず、言葉だけは通じるという存在の恐ろしさ……
精神科医の斉藤環氏は近著で、ミッキーマウスをはじめとするディズニーのキャラクターは「きわめて人間的」である分「あまり可愛くない」のに対し、ハローキティ等サンリオのキャラクターは「人間くささに欠ける」分「可愛い」ことを指摘しています。
……〔サンリオのキャラクターに対しては〕共感や同一化は容易ではなく、そのぶん彼らへの愛情は「感情移入」によって成立することになる。
僕はかねてより、共感不可能な対象ほど可愛いと主張してきたが、これを言い換えるなら、愛着行動において感情移入が必要とされる度合いこそが「可愛さ」の尺度になるのではないか。
(斉藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』、筑摩書房、2011、p.77、下線強調部は原文では傍点)
「共感」と「感情移入」の区別に注目ですね。
キュウべぇもまた、ある意味では人間的にうざったいマスコットより「動物的に可愛い」。しかし同時に、その「可愛さ」を突き詰めたものがどれほどおぞましくなりうるかも、見せてくれた気がします。
(斉藤氏のこの著作については、またの機会に語ることになると思います)
(芸術学4年T.Y.) テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育
コメント
コメントの投稿
トラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL
まどか☆マギカ――疲労の積極性
| ホーム |