オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
まどか☆マギカ――メタレベルの戦いを超えて
前置きは省略して以下ネタバレ
いよいよ、現在放送されている最後の回です。
第10話「もう誰にも頼らない」
この回は全て暁美ほむらの過去篇です。
まず、第9話までですでに明らかになっていたことですが、ほむらは時間操作の魔法の使い手で、「別の時間軸から」やって来た存在だった、それゆえに魔法少女を生み出す存在であるキュウべぇにとっても「イレギュラー」でした。
長期の入院から退院して学校に復帰したほむらに優しく声をかけてきれたのが、保健委員である鹿目まどかでした。さらに、帰りに魔女に襲われたほむらは二人の魔法少女――巴マミと鹿目まどかに助けられます。
しかし……強大な魔女「ワルプルギスの夜」との戦いでマミは倒れ、まどかも死んでしまいます。
その時現れたキュウべぇにほむらは願ったのでした。
「鹿目さんとの出会いをやり直したい。鹿目さんに守られるだけの私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」
こうしてほむらは時間を遡る能力を手に入れ、退院の日から人生をやり直すことになります――今度は「魔法少女」として。
しかし、結果はやはり悲劇に終わり、魔法少女のソウルジェムこそが魔女を生み出すという真実を――「みんな、キュウべぇに騙されている」ということをも――知ってしまいます。
再び時間を遡ると、今度はその“真実”を皆に告げようとするも、簡単に信じてもらえるはずもなく――
悲劇に終わる運命を変えようと、何回も時間をループし続けるほむらの姿を描きつづけて、この回は終わりです。その中でサブタイトル通り「もう誰にも頼らない」と心を凍てつかせ、当初の気弱な少女からすっかり印象を変えて、孤独に戦いつづけるほむらの姿は強烈ですね。
実は、第1話の冒頭で描かれた夢のシーンも、「いずれ来るクライマックスの予知」かと思わせて、「ほむらが繰り返してきた過去の一つ」にされてしまいます。もっとも、(1話から描かれてきた)この時間軸でも、同じ展開を迎える可能性は依然として残されていますが。
さて――私はあまり詳しくないのですが――、これが「ループもの」として確立されたジャンルに属することは確かでしょう。
悲劇を回避しようと何度も時を遡りやり直すほむらの姿は、何回もバッドエンドを迎えながら、ハッピーエンドを目指してゲームをやり直すプレイヤーを思わせるのは、さほどこの分野に詳しくなくともお分かりではないかと。
このように「プレイヤー視点」をシナリオ中に取り込んでいるという意味で、「ループもの」はメタ言及性が強い、というのも今更言うまでもないくらい指摘されていることです(例えば、いつぞや触れた前島賢『セカイ系とは何か』を参照)。
が、さらに考えると――「ワルプルギスの夜」の歯車のような姿が「運命」を象徴しているという考察も見た覚えがありますし、おそらく多くの視聴者が気付いていることでしょう。実際、「ワルプルギスの夜」に敗れようが、倒してまどかが魔女になるのであろうが、いずれにせよ必ず、「ワルプルギスの夜」の襲来によって結果は悲劇となって終わります。
この「世界の中で何が起ころうと代わらない運命」というのは、世界の外からの圧力を強く思わせるものです。要するに、そのつど違うプレイをするプレイヤーに対して、制作者サイドによって定められたシナリオ、とでも言いましょうか。
とすれば、この回で描かれたのは、「運命」と「運命を変えようとするほむら」のメタレベルの戦い、と言えそうです。
しかも、この回はオープニングが最後に流れるという最終回のような演出になっていました。
この回を最後に(現実の)地震の影響でしばらく放送中止となったのにも、それこそ「運命的な」ものを感じないではありません。
ここで終わったら「メタレベルの終わりなき戦いへと回収されて終わった物語」となっていたことでしょう。
が、まだ終わっていません。
この後の展開で、ほむらが運命を変えることに成功しようと、はたまたやはり悲劇に終わろうと、(論点をそこに絞る限り)それは「メタレベルの戦い」で「どちらが勝ったか」という話になってしまいます。それはメタレベルを新たな「戦いの物語」にしてしまうことになります。
その場合、我々視聴者は「メタレベルの戦い」に対する「さらなるメタレベル」からその物語を見ていることになるでしょう。
それで満足か、と言われると、はてさて――
※ まだ全然考えになっていない考えを述べることになってしまいますが、思い出されるのは、精神科医の斉藤環氏がつい先日紹介した近著で「メタレベルは常にすでに空虚でしかない」(斉藤環『キャラクター精神分析』、筑摩書房、2011、p.130)「もはやそこに『メタレベル』はない」(同書、p.131)「『萌え』は『メタ空間など存在しない』という一つの真理を露呈させる」(同書、p.201)等の言及をしており、これを本質的なことと捉えているらしい、ということです。
「○○は存在しない」という言い回しはラカン(1901-1981)に倣ったものですが、何分ラカン派の悪い癖で、この『キャラクター精神分析』を読んでも、なぜ「メタレベルは存在しない」のか、十分に説明されているようには見えず(読者にラカン派精神分析の予備知識がない限り)、これが何のことを言っているのか、私もまだよく捉えられていません……
しかし、もし「メタレベルは存在しない」というのが「現在、すでに露呈されている真理」ならば、本作も何らかの形でメタレベルを相対化する方向に向かわざるを得ないのではないか、と読むことはできます。さてどうなるでしょうか。
思い切ってこの先の展開予想でもして、どれだけ当たるか外れるか試してみたい気もしますが、私もそこまで考え込む余裕がないので、大雑把な可能性を挙げて、それに対する見通しのみを――
・「最悪のバッドエンド」がどんなものかと言うと難しいのですが、とりあえず、ほむらが無事ならばまた時間を遡ってやり直すことになってしまいますから、「ほむらが死ぬ」のが、バッドエンドの上で「これで終わり」と言える条件でしょう。
・ほむらにとっての「ハッピーエンド」は、とにかくまどかが魔法少女にならずに、「ワルプルギスの夜」の襲来を乗り切ることです。
が、自分以外を犠牲にして一人助かることをまどかが喜ぶかと言えば…11話予告も、それを非難するようなまどかの台詞になっています(まあ、予告は常に誤解を招くように作られているのも事実ですが)。
そもそも、これらはいずれもまだ「ほむらが勝つか運命が勝つか」というメタレベルの戦いに留まっています。第一、それではもう、ほむらが主人公になってしまいますね。
・「究極のハッピーエンド」はと言えば、キュウべぇを滅ぼす(あるいは、少なくとも地球から追い出す)ことです。
できれば、キュウべぇが最初の魔法少女を生み出す前に遡って撃退しておけば、魔法少女も魔女も生まれることはありません。
しかし――前回までに見てきた本作の基本設定を考えると、それだけの「見事な解決」の代償は、必ずどこかに残らねばならないように思われます。そこで誰かが犠牲になるか――何となく、それでも足りないような気がします。
結局、片っ端から可能性を潰すようなことを言ってしまいましたが、どの程度こちらの予想を超えてくれるか、期待してしまいますね。
(芸術学4年T.Y.)
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