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多重人格

そう言えば、健康診断で視力測定の結果は、矯正視力1.2を超えていました
はて、そんな強力な眼鏡にしたのだったか…まあ、これで当分眼鏡を作り直す必要はなさそうです(そもそも、裸眼視力0.2~0.4くらいなので、もう下げ止まりかも知れません)。


さて、昨日の、「魔法少女まどか☆マギカ」に関する(ネタバレを含む)記事の内容に続きますが、別に前回を読んでいなくても構わないような話です。

まず、斉藤環氏の近著から(この著作も、独立して取り上げるつもりでありつつ、なかなか手が付けられませんが)。

 人にはおそらく、“幸福の才能”というものがある。偶然の成功体験を、これは必然の運命だったと自分に信じ込ませる才能のことだ。そうした必然性への“信仰”が、自らを取り替えのきかない固有の存在であるとみなす確信の基盤にある。それを“信仰”と言ったのには理由がある。まず、そこには何も根拠がないこと、そして、多くの若者がその“信仰”を捨てつつあること。
 (……)
「すべたは偶然」今日の世界観のもと、個人は取り替え可能な存在として匿名化されると同時に、もう一つ重要な変化が起こる。それは「世界の複数化」だ。(……)
 あたなは大きな成功体験をおさめた瞬間に、こんな感覚を持ったことはないだろうか。「ああ、今回はたまたまうまくいった。でも『次の人生』でも同じように成功できるだろうか……」と。告白すれば、実は僕は、しばしばそういう感覚に襲われる。そう、この瞬間だ。“私の世界”が複数化し、“私”が匿名化にさらされるのは。
 もし心から「人生は一回きり」と信じられていたら、成功体験をしみじみと味わい、明日からの自身につなげることができるだろうに。
 長い前置きになったが、この「すべては偶然」教とキャラには、かなり密接な関係がある。匿名化にさらされた個人の心に、固有名とは別のしかたで一つのまとまりを与えてくれるのが「キャラ」なのだ。記述しきれない固有性とは異なり、キャラは記述することが可能である。むしろ、常に記述されなければ存続できない存在がキャラなのだ。
 また、後で詳しく触れるように、キャラのもう一つの特徴として、複数の世界のどこにあっても、そのキャラの同一性を維持できる、ということがある(ここでとっさに『ドラえもん』のタイムスリップものを思い出したあなたは正しい)。先ほどの僕の個人的感覚に即して言えば、この人生でも「次の人生」でも、キャラは変わらない、ということだ。
  (斉藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』、筑摩書房、2011、pp.38-40)


「『次の人生』でも同じように成功できるだろうか」という感覚は、私には必ずしも親近感のあるものではありません。
ただ、そう感じる人が一定数いるというのなら、そこにはしかるべき理由があるのでしょうし、単に非難しても始まらないでしょう。
ひとまず、「世界の複数化」という言い方に注目ですね。この「世界」は「私の世界」であり、「世界の複数化」は「私」の(匿名の個人としての)複数化です。

続いて、「私」が複数になる(ように思われる)現象、多重人格の話です。
昨日の記事で引きましたが、東浩紀氏はギャルゲー『YU-NO』の「並列世界」を行き来するという設定が、通常のギャルゲーにおいてルートの分岐を前にするプレイヤーに対応しているとして、このように一つの分岐の中を生きる(作品内の審級)と分岐マップ(メタ審級)が並列に存在していることを「ポストモダンの特徴」を反映したものとしてます。そして、ここに反映されている「私たちの時代の特徴」とは「多重人格」であると言うのです。

 (……)多重人格モデルとは、まさに記憶の部分的な断絶によって特徴づけられるものである。ひとりの人間のなかに複数の交代人格が区別される最大の根拠は、それらのあいだで記憶が断絶していることだ。(……)
 しかしその断絶は決して完全なものではない。たとえば、交代人格が数多く存在するときには、そのあいだにしばしば階層関係が生まれることが知られている。(……)たとえば七〇年台のある症例では、交代人格が四つあり、そのうちAとBとCはみなDの行動や心理を完全に記憶していたが、Dはそのいずれにもまったく気がついていなかったと言われている。
 つまり、(……)彼らは身体を別の人格と共有し、ときに記憶の一部までも共有しながら、それぞれ別のアイデンティティをもち、別の人生を歩んでいるのだと強く主張している。
  (東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た現代社会』、講談社現代新書、2001、pp.168-170)


さて、この多重人格=解離性同一性障害(DID)を含む「解離」については、精神科医である斉藤環氏によると、「そのメカニズムの解明はいまだ不十分である」(前掲書、p.48)とのこと。
ひとまず仮説の一つとして紹介されるパトナムの説によると、「人格」は「『行動状態』というモジュールの集合体」であり、たくさんのモジュールによって形成されるシステムを「統合しコントロールする」中枢が「メタ認知的統合機能」である、とされます。そして、この「メタ認知的統合機能」の機能不全によって「『行動状態』モジュール間の連絡が失調をきたす」のが解離である、ということになります(前掲書、pp.48-50)。
が、斉藤氏は「このモデルでは例えば『統合失調症』とDIDの違いを説明できなくなってしまう」等の理由で「ひとたび精神障碍の側からの検証を試みるならば」「このモデルはほとんど使い物にならない」と否定します(前掲書、pp.51-52)。
では、ヒントはどこにあるか。

 ところで、ここまで読んできて、不思議に思った人はいないだろうか? そう、なぜDIDにおいてすら、「一つの身体」に「一つの人格」というルールは守られなければならないのだろうか?
 実際、僕は一人の身体に複数の人格が共存する事例の経験はないし、そうした報告を読んだこともない。交代人格とは文字通り、一つの身体をかわるがわる支配する人格、ということだ。一つの身体を二人以上の人格が奪い合うような事態はしばしばある。しかし、複数の人格が協力し合って一つの身体をコントロールする、という事態はまずありえない。
 もし上に述べたような「心のモジュール仮説」が正しいのであれば、そうして事態が起こってもなんらおかしくない。しかし実際にはありえないということ。もしくは、きわめて起こりにくいということ。これは何を意味するのだろうか。
  (斉藤環、前掲書、pp.54-55)


精神医学の知見については無論、私には分かりませんが、一つだけ、言えるのではないかということがあります。
「一つの身体を同時にコントロールしているのなら、それは“一つの人格”なのではないか」ということです。
これくらい誰でも知っている、確かなことはありません。いくら矛盾していようと、「あの人のことを好きだけど嫌い」であろうと、それで「私」が二人になることはありません。当たり前すぎて難しい。

斉藤氏は「僕たちは身体だけではなく、人格についても、一つの空間的なイメージで捉える習慣がある」ことを挙げ、「『一つの実体的イメージ』であるがゆえに、同じ一つの身体という空間を二つ以上の実体が占めるべきではない、という物理法則が無意識に適用されてしまっている可能性」を指摘しますが、逆に考えることもできるのではないでしょうか。
つまり、「二つ以上のものは同じ場所を占めることなく、分かれて存在する」という空間的イメージを適用することによって、「人格の複数化」が可能になるのです。
もし人格は空間的な実体ではないがゆえに、複数の人格が同じ身体の内に“重なって”存在することができたとしましょう。その“重なって”いることをもって「人格の統一」と言うのです。

「人格」は「モジュールの集合体」などではなく、人格の統一の方が先でモジュールの方が二次的な分節の結果である――そういう意味では、「モジュール説」に対する批判にも同意です。

ベルクソンによれば、「多」を可能にするのは「空間」です。
私たちには時間の中で数を(1つ、2つ、と)数える習慣があるので間違いがちですが、前に数えたものを空間の中に固定し、「並置」することによって、初めて「多」が生じるのです。

数が一である、と主張する時、我々がそれによって理解しているのは、我々がその数を全体で、精神の単純かつ不可分な直観によって表象する、ということである。
 (アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』第2章、強調引用者)


つまり、精神が――「私」が――「一」である、ということが先に立つのです。

では人格の「交代」、つまり「あの時」と「この時」で別であった、ということが成り立つのはいかにしてか、と言えば、「あの時」と「この時」を「並置」することで、つまりベルクソン的に言えば「時間の空間化」によってです。
もちろん、「空間」も「数」も無用のものではありませんし、それを人格に適用する向きが多いのであれば、その意味を考慮する必要はあるでしょう。しかし、順番を間違えるべきではありません


(最後に、前回記事を読んでいる方向けに)


結局、「世界の複数化」に先立って、「生きられた一つの世界」がある――「まどか☆マギカ」についても、私はその方向で読みます。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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