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ウォーホルと絵画技法

アンディ・ウォーホルと言えばポップ・アートの巨匠、シルクスクリーンでありふれたイメージを複製した画家としてよく知られています。

ウォーホル キャンベル・スープ
(アンディ・ウォーホル《キャンベル・スープ缶》)

が、果たしてどこまでがシルクスクリーンなのでしょうか
画集には片っ端から「シルクスクリーン」と書いてあるものがありますが、ただちに信じて良いかどうか、疑問があるという説も。

ウォーホル マリリン
 (アンディ・ウォーホル《ターコイズ・マリリン》)

↑これなどはマリリン・モンローの写真を拡大転写したものですね。色々な色のバリエーションがあるのも有名です。
宮下規久朗先生(今年も夏に本学に非常勤で来る予定ですので、“先生”付け)の著作によると、ウォーホルがシルクスクリーンを使い始めたのは《マリリン》制作の直前とのこと。

ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡 (光文社新書)ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡 (光文社新書)
(2010/04/16)
宮下規久朗

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《マリリン》の制作時期は1962年、上記の《キャンベル・スープ缶》と同年です。ですから《キャンベル・スープ缶》がどちらに属するかは微妙で、さらにウォーホルは以降にも似て非なる《キャンベル・スープ缶》を複数制作しているので、ものによって違いがあるのかも知れません。
ただし、以下の記述も参照。

 1961年4月、ウォーホルはボンウィット・テラー百貨店のショーウィンドウの婦人服のディスプレイの背景に自作の絵画5点を展示する機会を得た。それは人気漫画を描いた《スーパーマン》、《サタデイ紙のポパイ》《リトル・キング》、ペプシ・コーラなどを描いた《広告》と整形外科の広告を描いた《手術前・手術後》であった。
 これら「手描きポップ」の作品はいずれも、漫画、広告、商品、新聞の一面など大衆文化から採ったイメージをプロジェクターで巨大なカンヴァスに投影してアクリル絵具で写しており、(……)いまだ抽象表現主義風の手描きの荒々しい筆触をとどめていた。
  (宮下規久朗『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』、光文社新書、2010、p.29)


「抽象表現主義風の手描きの荒々しい筆触をとどめていた」のも事実ですが、それは意図的なもので、手描きでもコピーのように忠実に既存のイメージを模倣できたのですね。

ちなみに、現物をよく見ると鉛筆による下描きの線が見えるものもあります。愛知県美術館のウォーホルがあって、見た覚えもあります。もっとも、手描きとシルクスクリーンの併用もあり得るので、ただちに「シルクスクリーンではない」とは限らないのですが。

なぜこういうことにこだわるかと言えば、ウォーホル解釈に関わってくるからです。
例えば、美術批評家・椹木野衣氏の解釈を見てみましょうか。

 ウォーホルは、コカコーラの瓶やキャンベル・スープの缶といった、それ自体としてはなんの芸術的価値もなさそうなイメージをシルクスクリーンで刷りましたが、自分の作品になにか高尚な芸術的価値があるというようなことは一度も語ったことがありません(……)。ウォーホルが言うのは終始、自分が作っているものはアートなのかどうかまったくわからないけれども、もしもあなたがそれを芸術作品として高いお金を出して買うのだとしたら、それはきっとアートなんでしょうね、ということです。ウォーホルはよく、結局のところアメリカの大量生産=大量消費時代の写実画家であり、かつての芸術家が田園風景や人物を描いたように、いまや都市にあってコーラやモンローを描いた。そして、それがポップ・アートなんだ、というような誤解を受けているようですが、そのように素朴な人間ではありえません。
 これは一種の錬金術なのです。西洋中世の、あのおどろおどろしい魔術的意味においての錬金術ではないかもしれません。けれどもそれは、何の変哲もない便器やコカコーラのイメージを、実際に巨万の富に変えることのできる、一種の魔法なのです。
  (椹木野衣『シミュレーショニズム』、ちくま学芸文庫、2001、pp.57-58)


ここではウォーホルは、便器にサインをしただけのものを《泉》という作品として出展した(1917)マルセル・デュシャンの流れを汲んで、「芸術作品とは何か」を問い、「こんなそれ自体としては価値のないものでも“アート”になるのだろう」という皮肉を含んだ問いかけを投げかけるアーティストとして扱われています。

宮下先生の記述をこれと対比してみましょう。まず宮下先生は、キャンベル・スープが「それほどおいしいものではない」ことを指摘し、にもかかわらずこの作品が人気がある理由を考察します。

 それは、キャンベル・スープ缶のデザインが優れているためであろう。上下を赤と白に分けたシンプルで明瞭なデザインは、見れば見るほど美しい。(……)
日常的な商品を取り上げたというコンセプトだけでは、人々に愛されるイメージにはならない。ウォーホルが
キャンベル・スープの缶を選んだのは、それが絵になるにふさわしい優れたデザインだったからではないかと思われる。
  (宮下規久朗『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』、p.58)


 もし抽象表現主義の崇高さが求められれば、ウォーホルはそれを表面的に模倣して描くことができたであろうし、伝統的な風景画が好まれればそれもたやすく制作できたにちがいない。つまり、芸術家の個性や感情というものはなど本来は存在せず、英雄的な創造主としての芸術家というイメージがいかに欺瞞に満ちたものかということを、長らく商業美術の側から抽象表現主義全盛の純粋美術の動向を眺めていたウォーホルは知っていたのである。
  (同書、p.44)


両者の見解は全面的に対立するとは言わないまでも、方向性の違いを示します――既存のイメージを忠実に写したという事実は同じとしても、それを「選ぶ」に当たってウォーホル固有の美意識が存在していたのかどうか、という点で。
そして、単に転写装置に頼って写しただけなのか、それとも高度な技量をもった上で自らの個性を抹消し、機械になろうとした(「ぼくは機械になりたい」というのはウォーホルの有名な言葉です)のか、というのは、これと無縁の話ではないでしょう。

詳しい技術的説明が入るとそれがいっそうはっきりすることを、《花》のシリーズに関する記述で見てみましょう。

ウォーホル 花
 (アンディ・ウォーホル《花》)

 花を描くと決めると、例によってウォーホルは元になる写真を慎重に選んだ。そして、『モダン・フォトグラフィー』というアマチュア写真家向けの雑誌の6月号に掲載されていたカラーの花の写真に決める。
 (……)そこには横長の写真に7つの花が写っていた。
 ウォーホルはその左の部分をカットして正方形にし、4つの花が入るようにした。しかし4つの花をすべて入れるとまだ長方形になってしまうため、さらに右上の花がより左に移るように、その部分を切り貼りした。さらに花の内部の花弁や花びらのしわを消すためにテープを貼り、花の内部をフラットにした。このように調整した写真を業者に注文して大きなスクリーンを作らせたのである。
 48インチ(約122センチ)四方のものを中心に、その半分の24インチ、82インチのものまで様々なスクリーンを用意した。
 まずカンヴァスに4つの花の部分を鉛筆やボールペンでなぞってそこの花の色を塗る。色は、元になったカラー写真では赤、黄、ピンクであったが、ウォーホルはそれ以外にも青や紫、白や青やオレンジなどを、ときに蛍光塗料で塗った。次のその花の部分をマスキングして、それ以外の部分をすべて緑に塗る。最後に陰影となる花のスクリーンを黒で転写する。
 (……)
 ウォーホル作品の常として、一度決めた元の写真の図像を決して変えないという特性がある。この花の絵も、最初に慎重に画面をトリミングし、花の位置をずらしたり、花弁を消したりして原図を決定すると、それを何百回と繰り返して用いた。図像が同一でも、色彩については無限のヴァリエーションが生まれ、また《花》の場合は4種類の向きがあるので、いくら数多く作っても滅多に同一にはならない。こうしたアイディアが生まれるのが、ウォーホルの特殊な才能というものであろう。
  (宮下、前掲書、pp.201-207)


私が「“作者の個性”の終焉」といったような「現代的」見解(※ これは特定の誰かの言葉ではありません。念のため)にただちに与することができないのも、(本業から外れた)技法書の翻訳にそれなりのやり甲斐を感じているのも、1つにはこうした理由によります。ここにはある程度まで、実証可能なことが含まれているのです。

P.S. もっとも、ウォーホルに関してはこのような多様な解釈が可能なことは、宮下先生も最初に認めていることでもあります。

 伝統的な美術に反逆し、美術や映画に革新をもたらしたアヴァンギャルド芸術の旗手というイメージによってウォーホルを語ろうとすれば、そうしたウォーホル像を形成する言動や作品に不足することはない。逆に、伝統美術の枠にとどまり、西洋美術の伝統を完璧に継承した保守的なウォーホル像を想定しても、その根拠に事欠くことはない。(……)
 いずれのウォーホル像も正しく、またいずれのイメージも彼の全体をカバーすることはできない。彼がこうしたすべての解釈を包含することの巨人であったというよりも、あらゆるイメージを許容してしまうキメラ、つまり鵺的存在であり、まさに鏡のような体質をもっているためである。
  (宮下、前掲書、p.12)


                           (芸術学4年T.Y.)

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テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

コメント

はじめまして^^

美大の時の先生が、アンディ・ウォーホルの熱狂的ファンだったので、印象に残っています。
凡人である私にはその芸術的センスが今一つよくわからなかったものですが、眺めている分には軽快でポップな感覚が漂い、好感が持てました。

単純な構成に見えながらも、そのトリミングにゆるぎない拘りがあったのですね。そう言う部分が凡人と芸術家を分けるところだと感じます。
そしてそれに高い芸術センスを感じとれるファンも、芸術家だなあ~と思いますね。
その感覚が、もう少し自分に欲しいなあ・・・と、今更ながら感じています。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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