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まどか☆マギカ――斎藤環氏の解釈

ゲームラボ 2011年 06月号 [雑誌]ゲームラボ 2011年 06月号 [雑誌]
(2011/05/16)
不明

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私はあまりゲームをやらないので、ゲーム雑誌はほとんど縁のないものではあります。まあ、他にフィギュア等の情報も載っていますが、いずれにせよ普段の私にはあまり縁のないものです。
ただ、この号では精神科医・斉藤環氏がページほどの記事で、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」を取り上げています。
…またかよ、とお思いの向きもありましょうが、語れる限りは語りますよ。

斉藤氏も「まどか☆マギカ」の設定が「ホントに良くできてる」と高評価(理論家がこう言う時には、「自分の見解から見た『この手の物語の本質』をよく体現している」という意味がまずあります。私も当然そういう向きなので、別にそのことを悪いとは言いません)。

指摘は数個ありますが、今回は「まどか」の設定に関する言及を取り上げましょう(他はまたの機会があれば)。
複数の平行世界にまたがる因果の糸を結ばれることで最強の魔法少女となった、というまどかの設定を斉藤氏は「まどかがすでに、多重化した世界の中でも壊れない“強い同一性”を維持する存在=キャラになってるってこと」(『ゲームラボ』2011年6月号、p.149)と解釈します。
私はこの点について、「そもそも世界は多重化しているのか」「世界の多重化の前に“一つの世界”があるのではないか」と解釈しました(「まどか☆マギカ――メタ問題の次元で」を参照。こちらはアニメの内容のより詳細なネタバレを含みます)。

これだけ取ると対立するようですが、斉藤氏の『キャラクター精神分析』を読んで「キャラ=同一性」という命題を検討する限り、私の見解は斉藤氏とほぼ一致すると、(斉藤氏がどう思われるかはさておき)私は判断しました。
斉藤氏が近著で「最も重要な“発見”」と見なしたのは、「『同一性』は人間にのみ当てはまる概念である」ということでした。

 異なった場所で同型の車をみかけたとしてみよう。このtき、僕たちは「車の同一性」を認識できるだろうか。むしろ「よく似た車だな」と思うのではないか。しかし、もし異なった場所で同じ外見の人物を認識したなら、彼(女)は、ごく自然に、同一の人物と見なされるだろう。
 (斉藤環『キャラクター精神分析』、筑摩書房、2011、p.235)


もちろん、「同型の別の車」と「同じ車」を区別することは可能です。しかし、それは実際には、「人間」と結び付いた場合のみだ、というのです。
さて、キャラとは「同一性を伝達するもの」だということが本書全体の分析を通して示されます。
ということは、「キャラ」は「人間」から「同一性」のみを抜き出したもの、ということです。

 欲求に従い、確率に晒されつつ生きる「キャラ」たちの動物的な生を肯定するか。成熟の可能性を「キャラ」の統合に賭け、固有の生を生きる「人間」の回復を待望するか。
 僕の答えはもうお分かりだろう。「人間」の優位は変わらない。それはなにも精神科医として、あるいは精神分析に依拠するものとしての「公式見解」という意味ではない。
 (……)僕がここでいう「優位」とは、「人間」が「キャラ」に論理必然的に先行する、というほどの意味です。このパターンはさしあたり、いかなる人間中心主義とも関係がない。(……)
 別の言い方をするなら、「人間」なくして「キャラ」はありえないが、「キャラ」なしでも「人間」は成立するのだ。つまり、社会や時代といった「環境」のいかんにかかわらず、「人間」は常に「キャラ」の上位概念として要請されるのである。
 (同書、pp/248-249)


つまり、「多重化した世界を貫いて一貫した『キャラ』になる」ということは、「世界の多重化の前提となる『一つの世界』を生きる『人間』の存在を示す」ということと、ほぼ同義なのです(他でもない斎藤氏の理論によれば)。
これは別に「『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメが『人間』の深みを描いている」という意味ではありません。
このアニメのキャラ達は皆魅力的でしたが、そのような「深み」まで主張できるかと言えば話は違います。
言いたいポイントは、そのキャラ達の成立の背景に「人間」があることを、いわば「示す」形になった、ということです。

もう一。実は『キャラクター精神分析』の時点で、すでに少しだけ、当時まだ放送中だった「まどか☆マギカ」への言及がありました。

 顔の反復から新しい顔が生まれる。僕はキャラの顔は、そのようにしてもたらされたと考えている。現存するほとんどのキャラは、なんらかのコンテクスト性のもとでの反復によって生まれた、僕はそう確信している。
 見かけ上はランダムな萌え要素の集合体のように見えるキャラも少なくないが、しかし彼らは、決してランダムなフラグメントの順列組み合わせからは合成され得ない。
 (……)
 たとえば二○一一年二月現在放映中のアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』におけるヒロインたちのキャラクター造形には、反復回帰がいかにして新奇さをもたらしうるかという意味で、ほとんど教科書的な作品と言っていい。
 (同書、pp/217-218)


氏が具体的にどのような点を「教科書的」を見なしたのかは、これだけでは確かなことは言えません。さらに、ここで論じられている「顔」「コンテクスト」といった概念を論じるには、また別のスペースが必要でしょう。

ただ、私の印象で言っておくと、「まどか☆マギカ」のキャラ達は、そんなに奇矯な人物造形ではないということです。
「萌え要素」――例えば「メガネ」「メイド」「丁寧語口調」等々――の「組み合わせ」としては、かなり奇異な組み合わせも生まれます。むろん、そうした「組み合わせ」だけではキャラは生み出せない、というのがここでの重要な主張ですが、それと同時に、必ずしも露骨に新しい奇矯な組み合わせだけが新しさを作るわけではない、ということでもあります。

「では、いかにして新しさが生まれるのか」というのは、いずれにせよ機会を改めて論じねばならない問題ですが、斎藤氏の論旨から外れて、浅いところをほんの少しだけ。
「違いがわかる男」というフレーズが缶コーヒーのCMにもありました。
「違いがわかる男」の価値が成り立つ大前提は、「分かる男」にしか分からないような微妙な違いしかないことです。
そして、そういう微妙な違いの方がありがたいのです。
「自分は微妙な違いを味わうことができている」と思えますから。
そしてこの「深く味わえているという感覚」がおそらく――以前に私が提示した概念を使えば――「親しさ」なのではないでしょうか。
                           (芸術学4年T.Y.)

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今のアニメや漫画に関しては、従来の紙媒体からブログサイトに至るまで数々の批評が飛び交い、それらが互いにクロスオーバーされるという状況がリアルタイムで展開されているようですね。 私はその辺のことは...
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