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まどか☆マギカ――続・斎藤環氏の解釈

今のアニメや漫画に関しては、従来の紙媒体からブログサイトに至るまで数々の批評が飛び交い、それらが互いにクロスオーバーされるという状況がリアルタイムで展開されているようですね。
私はその辺のことはあまり知りません。いっぱしの批評家たらんとするなら批評の現状を知り、人と議論したりすることも必要でしょうが、どちらが優先するかと言えば、まずは自分で作品をよく見ることですからね。

…といった事情とは関係があるのか微妙なところですが、今回は「まどか☆マギカ――斎藤環氏の解釈」に引き続き、『ゲームラボ』6月号に掲載された斉藤環氏の「魔法少女まどか☆マギカ」解釈を取り上げていきます。

以下「魔法少女まどか☆マギカ」に関するネタバレもある程度あり。



斉藤氏の解釈のメイン部分は、ソウルジェムの設定に関するものです。

 せんせいがいちばん感心したのは、「ソウルジェム」の設定。魔法少女になる契約をすると、少女の魂はソウルジェムに物質化されて、肉体は抜け殻になってしまう。これはねえ、まさに戦闘美少女の究極完成形態とでもいうべきものだ。
 なんでそうなるのかって? せんせいはむかし、『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫)って本の中で、戦闘美少女たちを「ファリック・ガール」と呼んだ。簡単にいえば、「ペニスのある少女」って意味ね。ここでペニスっていうのは、攻撃性とか、戦闘能力だとか、そういう男性的とされている“力”のシンボルだ。
 『美少女戦士セーラームーン』とかが典型だけど、ひところの戦闘美少女モノってさ、ごく普通の女の子が異世界に召還されて、わけもなく戦闘能力を与えられるって設定がやたら多かった。大義名分もなければトラウマもない。ただ状況に巻き込まれて、戦わされるハメになってしまう。
 (……)せんせいは戦闘美少女のイメージが、セクシュアリティをフックにして、漫画やアニメといったフィクションの空間になんらかのリアリティを与えるために求められた存在じゃないかと考えた。繰り返すけど、そのリアリティの中心にあるのは、彼女たちのペニス、すなわち「戦闘能力」なんだ。
 (……)そう、ソウルジェムっていうのは、少女の魂であると同時に、彼女たちのペニスでもあるんだ。ペニスを与えられるかわりに、身体はがらんどうになってしまうこと。ここには戦闘美少女たちの「空虚さ」あるいは「理由(トラウマ)のなさ」が、あざといほどみごとに具現化されている。
 (『ゲームラボ』2011年6月号、三才ブックス、pp.148-149)


まず、専門用語に関してはっきりさせておきましょう。
「ファルス」とは男性器を意味する語ですが、(特にラカン派)精神分析においては、身体の器官としての「ペニス」とは区別される精神的な意味を持ちます。その内実はたいへん入り組んだものですが、「男性的な“力”のシンボル」という意味もあり、斉藤氏はもっぱらその意味に絞って使っています
その点を踏まえた上で、『戦闘美少女の精神分析』からもう少し詳しい記述を引きましょう。

 さて、精神分析では「ファリック・マザー」という鍵概念がしばしばもちいられる。これは文字通り「ペニスを持った母親」を意味しており、「権威的に振る舞う女性」を形容する場合に使われることもある。いずれにしても、ファリック・マザーは、一種の万能感や完全性を象徴している。たとえば欧米圏のタフなファイティング・ウーマン達は、そのほとんどがファリック・マザーと言ってとい。ところで私はこうしたアマゾネル達との対比から、戦闘美少女たちを「ファリック・ガール」と呼ぶことにしている。
 小谷真理子氏は以前、ファリック・マザー達がなんらかの傷――例えば「レイプ」のような――を負っているのではないかという、きわめて示唆にとむ指摘をしている。私は氏の言葉から、ひとつのヒントを得た。ファリック・ガール達には外傷がないのではないか?
 (『戦闘美少女の精神分析』、ちくま文庫、2006、pp.312-313)


斉藤氏は『風の谷のナウシカ』からナウシカとクシャナを例に挙げます。
「兄弟の裏切りなどによって、多くの外傷を体験」し、王蟲 によって身体にも傷を受けていて、それゆえに戦うクシャナに対し、ナウシカが自らの命をかけて王蟲を保護すべく戦うことには、はっきりした個人的な動機の裏打ちがありません。
なるほど、ナウシカにもトルメキア兵に父王を殺され、逆上して数人の兵士を殺してしまうというトラウマ的エピソードがあります。

(……)しかし想起してみよう。ナウシカが敵を殺傷するシーンで、何が明らかにされているか。そう、それは彼女の戦闘能力が、すでにスキルとして十分完成したものになっているということだ。そこには幾多の実戦によって鍛えられた可能性すらうかがえる。そして、もちそうであるなら、ナウシカはこの唯一の「外傷エピソード」以前からファリック・ガールだったのだ。
 (同書、pp.314-315)


ただ、「まどか☆マギカ」の話に戻ると、「身体が魂を抜かれて抜け殻となること」と「トラウマのなさ」が対応するのかどうか、微妙な感はあります。
とは言え、私もこの設定の意味については(まどか☆マギカ――「大人の意見」ですら…で心身二元の分離といった問題に結び付けはしたものの)あまり解釈していなかったので、斉藤氏の解釈を退けるほどのものは持ち合わせていません。

そして、確かなこととして、斉藤氏が対比しているのは「ファリック・マザー」と「ファリック・ガール」であって、普通の(ファルスを持たない)少女とファリック・ガールではありません。最初から問題はすべて「ファルス」の圏内です。が、それですべてか、というのが問題なのです。
以前に引用したところとかなり重複しますが、斎藤氏も依拠するラカンを引きましょう。

神秘的なものとは何か真摯なものです。(……)彼らは、その向こうの享楽があるはずだという観念を垣間見、感じています。それが、神秘家と呼ばれる人たちです。(……)
 私はすでに、悪いことに神秘的なものの側にいたのでもなく、むしろファルス的機能の側に位置していた別の人々、たとえばアンゲルス・シレジウスについて語りました。彼の観想的な目を、彼を見つめる神の目と混同すること、それはついには、悪しき享楽の一部をなすはずです。ハデヴェイクが問題になっているわけですが、それは聖女テレサについても同様です。皆さんはローマに行ってベルニーニの彫像を見るだけで十分です、彼女が享楽していることはただちに分かります、そのことは疑いありません。では、彼女は何を享楽しているのでしょうか?
 (……)こんなことを言うと、自然と皆さんは、私が神を信じているとすっかり思ってしまうでしょう。私は女性の享楽を信じているのです。それ以上のものとしての、それ以上という条件での女性の享楽を。
 (ジャック・ラカン『アンコール』「神と女性の享楽」)


少なくとも、「ファルス的な享楽」と「その向こう」にある「女性の享楽」が区別されていることは分かると思います。
男性的な“力”の意味を含む「ファルス」の享楽に対して、社会を生む「女性の享楽」(あるいは「大文字の他者の享楽」)という対比です(この用語法そのものは西洋の思想史に固有のものだとしても)。

そして、私がまどか☆マギカ――正義の地平から社会を生む神秘家で主張したのはまさしく、魔法少女は社会を生む「女性の享楽」の側にいるのではないか、ということでした。

※ 同じ指摘は、ナウシカにもほぼ当てはまります。

もっとも、この「女性の享楽」はラカンが晩年になって到達しつつも、多くを語ることのできなかったマイナーなテーマですから、これ以上を語るのは難しいでしょう。精神分析の知識に関しては斎藤氏の方が専門家ですし。

ただ、斎藤氏の理論で気になるのは、そもそも「トラウマ」が人間にとっていかなる重要な意味を持つのか、説明されていないことです(「トラウマ」もまた精神分析において、もっと言えば精神医学において多くの議論を呼ぶ用意ならざるテーマで、これを分かりきったこととは言えないでしょう)。そのため、「トラウマの欠如」がいかなる特異性を持つのか、今ひとつ鮮明でないように思われるのですね(私の読み込み不足という批判は甘んじてお受けしますが)。
斉藤氏によれば、トラウマのない「空虚さ」が「虚構ならではのリアリティ」を担保するということです。

 ファリック・ガールにおける「外傷性の排除」は、その存在の虚構性、言い換えるなら前提としての不在を純化するうえで不可欠な設定となる。なぜだろうか。もし彼女の「外傷」を設定してしまったなら、そこから「日常的リアル」が侵入してくるからだ。日常的現実の浸透性によって純粋な虚構空間はたちまち汚染され、中途半端でリアリティに欠ける寓話らしきものが出来上がるだろう。
 (同書、p.329)


しかし、なぜ「トラウマ」が特に「日常的リアル」を呼び込むものとして忌避されねばらないのか、分かるようで分かりません。

さらに「まどか☆マギカ」に戻るなら、トラウマの欠如という特徴は、少なくとも暁美ほむらには当てはまらないはずです。彼女はまさしく、まどかの死という悲劇を経て力を手に入れた人物でした。これは脚本の虚淵玄氏も言う通り「この作品の人間としての主人公はほむら」で、「まどかの足取りは、成長とはまた違」うことと結び付いています(『オトナアニメ』Vol.20、洋泉社、p.34)。斉藤氏の考える「戦闘美少女」の特徴を、本作における魔法少女の設定と、ただちに重ね合わせて良いのか、どうか。

最後にもう一歩。
ベルクソンやラカンの見る「神秘家」の特徴は、教義化された宗教の人格神との関係などではありませんでした。問題は、「その向こう」「それ以上」「自分自身を超えるもの」を感じて、それゆえに行為に駆り立てられる人がいるという事実です。
さて、鹿目まどかはずっと「自分にはなんの取り柄もない」と、奇妙なほどの劣等感を抱いていました。そんな彼女が自分でも知らない内に、ほむらが因果の糸を結び付けたことによって最強の魔法少女となっていました。そして、ほむらがずっと自分のために頑張ってくれてことを知ったまどかは一気に、自らの身を賭してすべての魔法少女を救う決意をするのです。この姿は、「自分自身を超えるもの」に突き動かされる神秘家を思い起こさせます。
「トラウマの欠如」、つまり「個人的な動機によって動くのではない」ということは、「空虚さ」にとどまらない積極的な意味を持つのではないか、と問いたいのです。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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