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百人百様の主観の意義

毎年「選書バスツアー」というのが行われています。
本学を含む5大学の学生が参加して、図書館内の「共同図書環」(図書環の蔵書とは別のようです)に入れる本を選ぶツアーだそうですが、毎年授業と被って参加できません。
3年前は夏休みの集中講義と被っていたような気がしますけど、今はもう完全に平日に設定されてますから…

 ~~~

昨日は主観視点の意味に少々触れましたが、こと芸術を相手にするとなると、これは重要なことです。
おそらく100人がいれば100通りの主観があって、それらが完全に一致することはないでしょう。中には、どうとでも言えることもあるでしょう。
けれども、その100の主観が芸術を芸術として成立させている全てです。それを取ったら何が残るというのでしょう。

たとえば、ただ客観的に絵に使われている油や顔料の化学的性質を相手にするのなら、それらの物質が「絵画」という形を取っている必要は全くありません。
そして、「なぜ絵画を相手にしているのか?」とは、必ず聞かれます。

もちろん、ただ「自分の主観はこうである」と言うだけでは、批評なり学問なりにはなりません(この手の過ちも結構多いのですが)。
しかし、「(自分を含め様々な)人の主観が何と言っているか」を切り捨てるのも正当ではない、ということです。

 さらに、ホルバインの絵画とドストエフスキーの小説を真正面から激突させた衝撃の第5章は、両者いずれの理解にとっても重要な鍵を提供してくれるはずである。ところが残念ながら、美術史家は概して、絵画について語ろうとする小説家や詩人の言説を、意識するにせよそうでないにせよ無視するか、それとも主観的で文学的として敬遠してしまうか、どちらかに傾いてしまいがちである。そうすることで、きわめて貴重なものを見落としてしまっているかもしれないというのに、だがもちろん、ストイキツァは、そうした偏狭な頑なさとはまったく無縁である。
 (岡田温司「訳者あとがき」ヴィクトル・I・ストイキツァ『絵画をいかに味わうか』、平凡社、2010、p.336)


芸術と言いましたが、もっと広く、「人文科学」全般について言えることですね、これは。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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