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コミュニケーション能力批判

――と言っても、「コミュニケーション能力ばかりが偏重されるのはけしからん」という話ではありません。ではどういう意味での「批判」なのかは、読めば分かります。

スタンドプレーで個人の能力を発揮しても集団のためになるとは限らないのであって、要請されることに合わせ、周りの皆が高いパフォーマンスを発揮できるようにすることが社会において求められる――ここまでは特におかしなことはないと思います。
しかし、なぜか一転、「コミュニケーション能力」が仇となるとしたら、どうでしょう。

「深まらないんだよ。いつまでたっても同じところをぐるぐるぐるぐる回っているんだよね。どんどん時間が経ってしまうけど話が前に進まない」
 企業研修のトレーナーをしている友人に聞いた話だ。グループに分かれて、ある議題に取り組んでもらう。たとえば、自分たちの会社の採用広告を作る、というようなものだ。あるところまでは、さまざまな意見も出して活発な議論が続くのだが、まとめ上げていこうとするあたりから議論が空転するのだという。業界でもタフな人材が多いことで有名な企業においても状況は同じらしい。
「ところが、みんな楽しそうにマジメにやっている。全然イヤそうじゃない。トレーナーの我々に対してもフレンドリーなんだよ」
 新入社員研修の設計・開発に携わっている知人も、同じ事を指摘する。
「ぶつかり合うのを避けている、という傾向はとても強いですね。葛藤を抱えることを嫌っている、という側面もありますし、ぶつかり合うような議論をするのはよくないことだ、大人気ないことだ、という認識もあるように思います」
 おれが多くの会社で起きている事実であるならば、彼ら新入社員は、いい仕事ができるようにはなかなかなれないだろう。意見や意向の差異、対立を明確にして、そのギャップを埋めていくことが、多くの仕事においては必要になるからだ。
 (……)
 (……)「コミュ力」とは、コミュニケーション能力の略語だが、就活という言葉と同様に意味の変質が起きている。
 彼らが口にする「コミュ力」とは、スクール・カーストを形成する人間関係格差の原点となっている「コミュ力」とは、相手を動機付けて行動を促したり、異なる意見の相手と議論して一つの結論を導く、という真の対人能力ではない。その場が期待するような話を展開し、空気を読みながらその場をうまく取りなすような能力だ。そして、その能力の高い学生がカースト上位に君臨し、自身に有能感を感じてきたのである。
 (豊田義博『就活エリートの迷走』、ちくま新書、2010、pp.129-134)


この後、採用の面接こそがこうした「コミュ力」の発揮の場であり、かくして入社後「迷走」する「就活エリート」が量産される、という話になるのですが…それはさておき。
引用部分の最終段落のように、「そうした『コミュ力』は真の『コミュニケーション能力』ではない」と主張することはそれなりの正当さがありますし、私もその手のことをどこかで言った覚えがあります。
しかし、そうした「コミュニケーション能力」に対する認識のズレを正確に把握していないと、話がこじれます

 (……)大学の先生は、現代の社会は若者にコミュニケーション能力を過剰に期待しているなんて批判する人が多い。批判自体は正しいかもしれないが、それじゃ学生がコミュニケーション能力を身につけようとしなくなる。それじゃ就職も難しくなるし、就職してからも苦労する。大学の先生はもっと社会に出てやっていける若者を育てて欲しい。
 (三浦展『下流大学が日本を滅ぼす! ――ひよわな“お客様”世代の増殖』、ベスト新書、2008、p.128)


まず、「大学の先生が批判したくらいで『身につけようとしなくなる』ほどに若者が『コミュニケーション能力』を重視していない」という前提がどこから来るのか、それをお聞きしたいところです。
みんな「コミュニケーション能力」を身に付けようとしているが、その内実が問題なのではないでしょうか。
豊田氏の表現に従うなら、「社会に出てやっていける」ために必要なのは「コミュニケーション能力」なのに対して、多くの場面で「過剰に期待」されているのは「コミュ力」ではないかと思われます。
そうしたズレを無視して、当然自分も相手も「コミュニケーション能力」の語で同じことを理解しているはずだ、という前提の下に話を進めるのは、それこそ「コミュニケーション能力」のある人間のやることとは思われません
ズレを無視したまま「コミュニケーション能力を身に付けろ」と言うと、相手は「コミュ力」を身に付けようとしてしまい、ますます「コミュニケーション能力」からは遠ざかる、ということも考えられます。

このような「コミュニケーション能力」という語の二重の意味を切り分けること、それが語の本来の意味での「批判的思考」です(批判 criticism の語源はギリシア語のクリノー κρινω =「分ける」)。

ただし、こういうことを――「曖昧な語の意味をはっきりさせよう」と――言うと、たいてい嫌がられます

「いやいや、そこまで難しい話はここでするものじゃないでしょう」(←この言い方は極めて穏健な方です)

というわけで、「コミュ力」(こっちの表現を採用します)のある人は、こういううるさいことは言わないものなのかも知れません
                           (芸術学4年T.Y.)

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テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

コメント

No title

素晴らしい内容の記事でした
確かに現代社会は異常にコミュ力を要求してきています

しかしそのコミュニケーションは
他人に不快な気持を与えないように
その場の空気を読んでその場しのぎ的に他人に取り繕う事であり
それをコミュニケーションと言っていいものか確かに疑いたくなりますね

私も全くの同意見です
今度この記事をトラックバックして記事を書いてもよろしいでしょうか?

差し出がましいようですが
まとめ上げていこうとするあたりから議論が空転すうrの
というタイピングミスを見つけました
僕もよくやりますw

Re: No title

ありがとうございます。
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――と言っても、「コミュニケーション能力ばかりが偏重されるのはけしからん」という話ではありません。ではどういう意味での「批判」なのかは、読めば分かります。スタンドプレーで個人の能力を発揮しても集団...
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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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