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好意は「相手自身」を対象とし得るか――『わたしと男子と思春期妄想の彼女たち』

例によってライトノベル。前置きは無しで早速作品紹介といきましょう。
わたしと男子と思春期妄想の彼女たち 1 リア中ですが何か? (ファミ通文庫)わたしと男子と思春期妄想の彼女たち 1 リア中ですが何か? (ファミ通文庫)
(2011/01/29)
やのゆい

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主人公は峰倉あすみ・中学二年生。幼馴染みの高柳君のことが大好きな彼女は、ある日謎の虚無僧に声をかけられます。

「そなたに悪霊が取り憑いておる」
 (やのゆい『わたしと男子と思春期妄想の彼女たち 1 リア中ですが何か?』、ファミ通文庫、2011、p.5)


と言う訳で謎の虚無僧から貰ったのはコンタクトレンズ。これを付けると、男子の妄想から生まれた《妄想少女》が見えて、話もできるようになるのでした。
《妄想少女》は基本的に男子一人につき一人、その男子の“理想の女の子”を体現した外見・性格の持ち主。と言っても作中メインで活躍するのは三人で、

・リサ…佐島君(高柳君の親友)の妄想少女。佐島君の片思いの相手・河内利沙をしている。
・ミウ…学級委員・宮里の妄想少女。ブルマ姿のスポーツ少女。
・ユイヒメ…“ゴリ”こと柔道部の郷原の妄想少女。派手なドレスのお姫様然とした姿。

妄想少女はその性質上、現実に「理想の女の子」がいる男子には必要ないことになります。たとえば、彼女がいれば……しかし高柳君には妄想少女がいないとのこと。かくして、あすみは妄想少女たちと協力して「高柳君の彼女」が何者かを探るのですが、同じ頃、学校内外で不穏な事件が起こり始め……と、ストーリーはそんな感じです。

主人公はアホなようで反応が早く、考えやしゃべり方もポンポン変えますし、きな相手のことで必死になるかと思うと正義感に駆られたり、いかにもな中学生らしさは出ていますね。
たとえば、人通りのないところで謎の虚無僧に声をかけられて警戒する(当然)一幕。

「誰か助けて下さい! 怪しい格好をしたお坊さんに拐かされそうです!」
 人家に届け叫び声! 住人召喚! しかし、坊主は怯まない。
「この法衣は仏の加護を受けた正装だ。怪しい格好ではない」
 たしかにその通りだ。異様な格好だが、お坊さんとして見ればきちんとした服装だ。サラリーマンにたとえれば、スーツをビシッと着ているようなものでさる。すみませんでした。訂正します。
「お坊さんに拐かされそうです!」
 しかし、坊主は怯まなかった。
「拙僧は拐かしをする無頼ではない。魂の救済を手助けする者じゃ」
 そう言えばそうだ。お坊さんは寺で読経したり木魚を叩いたりする人だ。冷静に考えると誘拐をもくろむ理由はない。落ち着きを取り戻して尋ねた。
「では、何の用ですか? お坊さん」
 (『わたしと男子と思春期妄想の彼女たち 1 リア中ですが何か?』、p.8-9)


この思考の移り変わりの早さが何となくおかしい。

で、やはり面白いのは「妄想少女」の設定ですね。
男子は妄想の中でくらい優しくされたいので、妄想少女は基本的にみんな優しいとか、もちろんみんな“本体”である男子のことが好きとか、いかにもな設定があります。しかも、“本体”の知っていることは共有している上に、人格を持って他の妄想少女と話すこともでき、そしてみんな優しくて大抵のことは教えてくれるので、妄想少女経由だと大概のことは分かるとか…結構怖いかも知れません。
妄想少女・リサのモデルとなった本物の河内利沙は(リサと違って)キツめのちょっとイヤな性格で、その上に高柳君のことが好きであすみに突っかかってくる辺りは、特に興味深いですね。
たとえば、リサが佐島君とキスしたことがある、と語る一幕。

「……キスってどうなの?」
『どうって……彼の舌が口に入ってきて、私も入れて……』
 お前ら不潔だ!
 (……)
『けどね、あすみ。それは佐島君の願望であって、河内利沙としたいキス。河内さんのことを思いながらしたキスだったの。ホントはね……私がしたいキスは、あすみと似た感じだよ』
 おのれ、佐島。
 リサとキスしながら、他の女を思うとは鬼畜にも劣る男。
 (『わたしと男子と思春期妄想の彼女たち 1 リア中ですが何か?』、.121-122)


だが、ちょっと待った。
「妄想少女とキスする」というのはもちろん、男子が「女の子とキスする妄想をする」ということです。
その時、佐島君としては当然「河内利沙とのキスを妄想した」つもりだったのではないでしょうか。
「リサとキスしながら、河内利沙のことを思っていた」と言うべきか、「河内利沙とのキスを妄想したつもりでありながら、実際に思い描いていたのはリサ(現実の河内利沙ではなく、理想像)だった」と言うべきか……

が、これはさらなる問いを喚起します。つまり、「彼女を愛する」ことと「彼女について自分が抱いている観念を愛する」ことは同じか、それとも違うのか、という。
…「愛」という大仰な日本語はやはり今ひとつ馴染まないので、「好きである」とでも言い換えましょうか。
「自分が抱いている観念」以外のものは自分は知りようがないのだから、これらは区別できない、とも考えられますよね。
SFでこの問いを扱った作品として、グレッグ・イーガンの「誘拐」(収録『祈りの海』、ハヤカワ文庫、2000)という短編もありました、そう言えば。

実は作中では、上の問いの対して「答えはどちらなのか」というレベルでは、答えは明快です。
現実に「理想の女の子」がいる男子には「現実の女の子とまったく同じ容姿・性格の妄想少女がいる」のではなく、「妄想少女はいない」のです。好きだという感情の対象は「自分の抱く観念」ではなく「相手自身」になり得るのですね。まあ思春期ドラマらしい爽やかな答えですが。
さすがに深読みのしすぎかと自分でも思いましたが、実は本作のメインテーマにしてオチになっているのは、まさにこの点でした

ここでさらに連想するなら、以前に引用したキルケゴールの文章は、まさしく「自分が彼女について抱いている観念を好きである」という状態をよく表していました。

けれども彼女は彼の恋人だった。彼がかつて愛した唯一の恋人、彼がいつか愛するであろう唯一の恋人であった。それだのに彼は彼女を愛していない。彼はただ彼女にあこがれているにすぎなかった。
 (……)
この誤解を現実の関係に作り上げるなどということは彼には不可能だった。それこそ彼女を永久の欺瞞にゆだねることだった。彼の想い、彼の心は、実は彼女とは別のものを、彼が彼女のうちに象徴させているものを求めているのであって、彼女はその憧憬の化身にすぎない(……)
 (キルケゴール『反復』)


つまり、これはある意味ではキルケゴールの頃から変わらぬテーマなわけですが、ある現代的なポイントをも思い出します。それは、

「彼女(彼氏)が欲しい」

というフレーズですね。
具体的に好きな相手がいて、その相手に振り向いてもらい、上手く行くためにはどうしたらいいか――というのは昔ながらの恋愛モノの定番ですが、そうではなくはっきりと「具体的に好きな相手」がいない時に使われるのが、このフレーズではないでしょうか。
「相手に振り向いてもらい、上手く行くためにはどうしたらいいか」ではなく、「相手を好きになれるのか」をテーマをした恋愛モノ――優れた着眼点だと思いますね。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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