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自殺論(続きは未定)

 真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するかどうかを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。(……)
 ある問題のほうが別のある問題より差迫っているということを、いったい何で判断するのかと考えてみると、ぼくの答えはこうだ。その問題の惹き起こす行動を手がかりにしだと。いまだかつてぼくは、存在論的論証の結果を理由としてひとが死ぬのに出会ったことがない。(……)これに反して、多くの人びとが人生は生きるに値しないと考えて死んでゆくのを、ぼくは知っている。他方また、自分に生きる理由をあたえてくれるからといって、さまざまな観念のために、というか幻想のために殺しあいをするという自己矛盾を犯している多くの人びとを、ぼくは知っている(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬためのみごとな理由でもあるわけだ)。
 (アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳、新潮文庫、1969、pp.11-12)


学問的立場からは、とても命を懸けるに値しない“どうでもいいこと”を論じるからこそ学問たる価値がある、と反論もできるでしょうが、戦時中に実際命懸けで戦ったカミュに何か言うのも無粋というものでしょう。

さて、自殺というのは通常、“普通でないこと”と考えられます。自殺するのは精神の病理だという捉え方もあります。
しかし、文字通りの自殺からもう少し広げて考えて、たとえば「死ぬと分かっているけれど戦う」ことはどうでしょうか。さらには「死ぬ可能性もそれなりにあるけれど、命を懸けて望む」のは……?

命を懸けて戦った全ての人を「病理」として切り捨てることはできないでしょう(戦って人が死んだりすることは、ない方が望ましいとしても)。
いかなる状況なら、「死ぬのももっとも」なのか?
重大な問いです。
                           (芸術学4年T.Y.)

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テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

コメント

No title

100%死ぬと分かっていて(少なくとも思っていて)
なおかつ回避する方法があるのにそちらを選ぶのは
自殺と同じじゃないかと
命を懸けて望むのはちょっと違うような
自分が「もっともだ」と思ったからと言って実際に
すぐ自殺できるかも微妙な気がします

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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