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宗教教育とその前提

緑のカーテン

要するに、ネットを張ってそこにアサガオのようなツル植物を育て、葉をカーテンとすることですが、街を歩いていると結構、ゴーヤを育てて「緑のカーテン」にしているのを見かけます。

 ~~~

はい、今日はまた新書の話から入ります。

教科書の中の宗教――この奇妙な実態 (岩波新書)教科書の中の宗教――この奇妙な実態 (岩波新書)
(2011/06/22)
藤原 聖子

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日本の学校教科書――主に高校の「倫理」の教科書における「宗教」に関する記述の偏りを問題視した書です。
たとえば仏教の教えが「環境破壊を克服し、自然と共生していく道を求められている今日の私たちにとって、さまざまな貴重な示唆を与えてくれるであろう」という記述は、はたして仏教を伝道する「宗派教育」に踏み込んではいないか? という具合ですね(pp.4-5)。
もちろん、教科書によっては逆に「神の愛とひとつになったわたしたちの人類愛は、家族をこえ、民族をこえて普遍的な人類愛をめざしていくべきものである」と、キリスト教を勧めているケースもあります(p.10)。
他方、イスラム教は扱われているだけであったり、またユダヤ教やヒンドゥー教に対する偏見を助長するような記述が見られたり…

まあ、これが筆者の言うように「政教分離の原則」を「踏み越え」るものであるかどうかは、まずは「政教分離」そのものの解釈の問題があり、異論もあるでしょう。
また、教科書は間違っていても偏っていてもいいという考え方もあります(私も実はそう思います)――先生がそれを踏まえて使うなら。が、現場で先生がどう教えているかに関する記述は、本書にはほとんどありません。その点は不足でもあります。
しかし、別に教科書が間違っていても偏っていてもいいのなら、教科書検定というのは何なのでしょうか

さらに、問題は単に「偏っている」というだけのことではありません。

 よく知られている歴史教科書論争と比較すれば、歴史解釈なら、特定の記述の背後にある執筆者の思惑がわかりやすい。少なくとも従来の争点である、大戦の位置づけなどについてはそういえるだろう。ところが、宗教に関する記述では、「いったいこの教科書は誰のためにその宗教を擁護しているのか」と思わずつっ込みたくなるようなものが多い。つまり、制作者側にあまり自覚がないままに、あれやこれやの価値判断が行われているのである。そのため、単に「思想的に偏っている」といった言葉では言い尽くせない、非常に“奇妙”な事態が持ち上がっているのだ。
 この、「自覚がないままに」という点が、筆社の考えではまさに最大の問題である。教育というものは、あらゆる価値から完全に離れることは不可能かもしれない。たとえば平和教育は、戦争より平和がよいという価値観を前提にしている。いや、教育をするということ事態が、人間を特定の方向に向上させようとしていう価値観に基づいているともいえる。しかしそのことを人々がわきまえていて、合意のうえで取り組むのなら、教育が勝ちに踏み込んでも許されよう。それに対して、宗教に関する記述がはらむ価値の次元は、そもそも認知されていないのである。
 (藤原聖子『教科書の中の宗教――この奇妙な実態』、岩波文庫、2011、pp.iv-v)


ではなぜこうした教科書ができてしまうのかという点に関しては、教科書制作の「舞台裏」に触れた話もあります。

結局、本書が問うているのは「教科書問題」というよりも「宗教教育は(行うとすれば)いかにあるべきか」という問題です。海外の教科書や宗教教育制度との比較、また海外でもいくつかの国で生じている問題に関する記述もあって、そこはなかなか面白いところです。


――宗教教育とは、そもそも何だと考えられているのでしょうか。
本書「はじめに」の冒頭で、2006年の教育基本法改正時の宗教教育に関する議論が触れられているので、そこを引用してみましょう。

(……)宗教教育推進派は、基本法改正を、「宗教的情操教育」を導入する好機ととらえた。宗教的情操教育とは、宗教知識教育と対比して使われる言葉で、道徳教育的な宗教教育のことである。単に「世界にはこういった宗教がある」と教えるのではなく、子どもたちの情操面の教育には宗教心が必要だという考えから、これを学校で学ぼうというのである。
 (同書、p.i)


ここで本書の記述からは離れて、私の考え(どこかで言ったことと被りますが)を言うと、こういう「宗教教育推進派」の主張の前提となっているのは、「我々はまったく宗教的でないこともありうる」という想定です。宗教がないからこそ、そこに宗教を注ぎ込まなければならないというわけです。
しかし、民俗学・人類学的研究を見ても、古今東西、宗教を持たない社会はなかったということを考えるなら、これは正当なのでしょうか。たとえば現代日本の我々も実は、教義化された仏教やキリスト教等々とは別の「宗教的なもの」を信仰しているという可能性は、ないのでしょうか。

「我々は宗教的ではない」と思っているから、各宗教の教えから良いところを学んでも、その宗教に正式に入信しない限り教化されてはいない、と考えることもできます。そして基本は「先哲の教えに学ぶ」――つまり「仏教やキリスト教にはこんなすばらしい教えがあるから学ぶのだ」という形になるのでしょう。何しろ、本来「あってもなくても構わないもの」なのですから、ことさらにその価値を強調する必要が出て来ます。
空気のようにそれなしでは生きられないものの場合、「子供達に呼吸の仕方を教える」必要もありませんし、「人間は酸素を呼吸して生きている」ことを教えるのは別に“酸素がすばらしいから”ではないはずです。

もちろん、「“宗教的なもの”は人間に絶対必要であり、宗教的でない社会はない」というのは、日本でなくとも一般的な考えになっているとは思いません。
ただ、あまりにも「“私には信仰はない”という信仰」を素朴に信じすぎるのは、実はかなりの問題だったのではないか、と。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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