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「可能世界」は存在するか

日々の経つのは、ある意味で遅い。
たとえば、待っている発売日などはなかなか訪れません。
それに対して、一日はすぐに終わってしまうのも事実です。ほとんど寝ているだけであっという間に夕方に。やるつもりのことは色々あっても、実際にできることは限られてきます。

 ~~~

さて、昨日の続きです。

そう言えば、前回「不確定性原理」とか「波動関数」という基本用語を使ってませんでしたね。
とりあえず、量子が波として広がっている状態は「波動関数」と言われるもので表され、それが粒子として特定されることを「波動関数の収縮」と言います。

量子力学の解釈については、答えの出ていない問題なので、「どれが正解」とは言えません。
ただ、波動関数が収縮するのが「人間(あるいは生物)の意識が状態を観測した時」とするのは、「観測」という言葉に引き摺られている感が強く、それほど根拠があるとは思えません。
そのような考え方を採用した場合、少なくとも、「なぜ宇宙の内で、意識だけが波動関数を収縮させる特殊な効果を持つのか」という問いは据え置きのままになります。

もちろん、我々は何事も人間の意識を通じてしか認識できないという意味で、我々にとって意識が特別な存在であるというのは確かです。
しかし、それは「我々にとっての世界は我々の意識を出発点とする世界である」という(重要ではあるが)当たり前の事実であって、それがただちに客観視点を目指す物理学の法則と一致すると考えるのは、なにやら単純の感なしとは言えません。

多世界解釈についても同様で、無限の可能な世界が重なり合っている中で「なぜ意識は一つの世界だけに気づくのか」というのは謎のままです。

まあ、科学理論としてはさておき、考えるのは自由ですし、それがフィクションにおいて面白いネタになるなら良いことです。しかし、量子力学から多世界解釈――並行世界の存在――が導かれねばならない、あるいは逆に「異世界の存在」という設定に量子力学が結びついていなければならない必然性は、実は薄いのではないか、ということです。

実際、フィクションにおける「並行世界(宇宙)」の概念は様々で、量子力学を踏まえているものばかりではありません。たとえば、多世界解釈において並行宇宙は「無限に」存在するとされますが、並行世界の数は限られているという設定もよくありますね。

あいにくと、「異世界もの」の系譜を調べ、SFにおける量子力学ネタの影響がどれほどあったかを示すという仕事は今の私の手には負えません(ギミックとして、少なからぬ影響があったろうとは思います)。
ただ、並行世界のようなものを想定するのに必要な前提は別のところにあるのではないかと思われます。
基本となるのは「この世界は別なようでもありえる」という考えです。

例として――2008年のアメリカ大統領選挙では、バラク・オバマがヒラリー・クリントンに勝利して当選しました。
ここで、「選挙結果が決まる前には、オバマとクリントンの両方が大統領になる可能性があった」と考えるのは、自然な思考習慣です。
そこから、「結果が決まる以前には、“大統領バラク・オバマ”と“大統領ヒラリー・クリントン”が“可能なもの”の状態で存在し、一方だけが実現した」と考えるとします。これまた古典的な考え方ですね。
では、実現しなかった“可能なもの”はどうなるのでしょうか。“不可能なもの”となって消えてしまうのか、それともこの世界とは別の“可能なもの”が実現された、「この世界とは別のありうる世界」が存在するのか……
後者の考え方が、並行世界のような考え方の原点にあるのではないか、と思われます。

これに対しては、哲学者ベルクソンの答えを見ておきたいと思います。

〔取材する相手が質問して〕「たとえばあなたは、近い将来の偉大な演劇作品をどのように考えますか?」。私がこう答える時の相手の驚きを、私はいつも思い出すことだろう――「もし私が近い将来の偉大な演劇作品がどのようなものか知っていれば、私がそれを作ることでしょう」(……)〔続けて〕私は言う。「しかし、あなたが話している作品は、まだ可能ではありません」――「しかし、その作品はいずれ実現されるのですから、可能なはずです」――「いえ、その作品は可能ではありません。私はせいぜい、その作品が可能であったことになろう、という点であなたに同意するだけです」――「どういうことですか?」――「単純なことです。才能ある、あるいは天才的な人が現れて、ある作品を作ったとしてください。その時、実在する作品があり、まさにそのことによって、作品は回顧的あるいは遡及的に可能になるのです」
 (アンリ・ベルクソン「可能と実在」『思想と動くもの』収録)


ついでにニーチェも。

 すべて歩むことのできるものは、すでに一度この道を歩んだことがあるに違いないのではないか? すべて起こり得ることは、すでに一度起こったことがあり、なされたことがあり、歩み通り過ぎたことがあるに違いないのではないか?
 そして、すべてがすでにあったことがあるのなら――こびとよ、お前はこの瞬間についてどう考える? この門道もまたすでに――あったことがあるはずではないか?
 そしてすべてのものはそのようにしっかりと結び付けられ、この瞬間は来たるべきすべてのものを後ろに引き連れているのではないか? だから――この瞬間自身をも?
 (ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』、第3部、「幻影と謎について」第2節)


解説も。

 この三つの唱句はそれぞれ、カントの様相のカテゴリーの一つずつに当てられている。一番目は可能性(歩むことの「できる」もの)に、二番目は現実性、三番目は必然性(すべてのものは「しっかりと結び付けられ」ている)に関わっている。さて、このすぐ後にツァラトゥストラは、カントが区別したこの三つのカテゴリーが互いに分離しがたいことを告げる。
 (……)〔ここから〕まず、なぜツァラトゥストラははっきりと、二度繰り返して、彼の学説が円環時間の理論に比較されることを拒絶したのかという、しばしば問われた問いに答えることができる。(……)それは、永劫回帰は時間についての学説である前に、様相についての学説だからである。
 (アルノー・フランソワ『ベルクソン、ショーペンハウアー、ニーチェ 意志と実在』)


カントの「様相」のカテゴリーとは、

・可能性(AはBでありうる)
・現実性(AはBである)
・必然性(AはBでなければならない)

という、三つの判断のあり方に対応するものです。
それらが分離しがたいということは、つまり「あるものはあるようでしかあり得ない」ということです。
(この必然性は、原因を結果と結びつける必然性とは、つまり「未来のことは全て決定されているのか」という問題とは別である可能性もあります)
この世界とは別に「可能な世界」が存在すると考えること自体、ニーチェに言わせれば、我々が「この世界」から、つまり一度きりの生から目を背ける結果として生まれるもの――「背面世界」――ということになるのでしょう。

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                           (芸術学4年T.Y.)

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