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平穏が一番(吉良吉影リスペクト)

正規の授業開始は来月からですが、今日は大学に行って来ました。
博物館実習の補完のような扱いで、大学のすぐ側にあるトヨタ博物館(トヨタ自動車を母体とする、自動車の博物館です)の見学です。

 ~~~

ジョジョ 吉良吉影
 (荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』37巻、集英社、1994、p.74)

『ジョジョの奇妙な冒険』第4部の悪役・吉良吉影(きら よしかげ)です。
殺人鬼でありながらあくまで目立たず「静かに暮らす」ことを願うという強烈なキャラでした。

と、ここから始めたのは次のネタに繋がってくるので。

 人間はもっとふっくらと生きるべきだ。
 真尋が好きなロボットアニメのノベライズで、そんな事が書いてあった。上下巻の上巻で、後半部分にしかロボットが登場しなくて主役機に至っては表紙にしかその姿を見せないという奇妙な構成だったけれど、宇宙時代の社会風俗や日常生活が濃密に描かれていて面白かった。
 頭を抱えるようなトラブルや、夜も眠れないほどの敵を作らずに植物のような穏やかな心で過ごすのが人生の幸福だ。
 そのような事が描かれていた漫画もあった。テーマは人間賛歌らしい。もっとも、その台詞を口にした人物は誰と戦ったとことで負けないらしいが。
 今、例に出した二つは概ね正しいと真尋は思っている。総人口が六十億に到達するのも時間の問題である現代、人々はちょっと慌ただしすぎなのではないか。今一度自分を振り返って落ち着いてみるのも悪くないのではないかと考える。
  (逢空万太『這いよれ! ニャル子さん』6巻、GA文庫、2010、p.5)


しかし邪神(=宇宙人)達が同居している現状ではそれは遠い…となるわけですが、書き出しからこのネタ密度です。
それはそうと、最近になってこういう主人公を結構見かけました。

 俺はめだつのが嫌いだ。座右の銘はフツーが一番。
 フツーがいいんだよ、何事もな。
 それをつまらねーって言う奴もたくさんいるが、俺に言わせりゃそいつらはフツーの何たるかを分かってないね。フツーの生活って奴の仲には、趣味に打ち込むとか友達と遊ぶとか、そういう楽しいことも含まれてる。ダチと遊ぶのが嫌なんて奴がいるか? 変に人と違うことしたいとか考えるから、そういう当たり前で大切なことを見失うんだ。
  (なめこ印『俺がヒロインを助けすぎて世界がリトル黙示録!?』、ホビージャパン、2011、p.17)


かくして、挙げている作品の顔ぶれからして、実は昨日の続きということになります。昨日紹介した『僕はやっぱり気づかない』は、まずプロローグからして…

 世界は退屈だった。
 もう少しやんわり言うと平凡であり、もう少しよく言えば平和だった。
 恐ろしい事件もとんでもない奇跡も起きずに、ただただ廻っている。
 でも、僕はそれをつまらないと思う反面、それでいいとも認めてしまっている。
 子供の頃には、正義の味方になって世界を救いたい、なんて夢見ていたが、十七歳になった今では、そんなことは微塵も思っていない。
 そんなことをいくら望んでも世界は変わらない。平和なままだ。
 どんなに願い望もうと、アニメや漫画の世界のように、面白おかしい痛快な事件なんで起きやしない。
 考えるべきことはいくらだってある。次のテストのこととか、クラスの女子のこととか、言い加減コロコロコミックを毎月買うのは止めよう、とか。
 ひどく粗末で些細なことだけど、それを繰り返して行くのが人生。
 人生は劇的じゃない。
 高杉晋作さんは「面白き、事も無き世を、面白く」と言っていたけど、僕に言わせれば「面白き、事も無き世も、面白い」だ。
 世界は、今ぐらいに退屈でちょうどいい。
  (望公太『僕はやっぱり気づかない』、ホビージャパン、2011、pp.5-6)


きわめて明確に、「宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織が目の前にふらりと出てきてくれることを望んでいたのだ」という『涼宮ハルヒの憂鬱』のプロローグを意識しつつ、主人公を反対方向へと持っていっています。
「このフツーな世界に比べて、アニメ的特撮的マンガ的物語の中に描かれる世界の、なんと魅力的なことだろう」と思い、そんな世界への憧れを心の底には抱いたまま、「フツーの」現実を受け入れ、次第にそんな夢は見なくなった、という『涼宮ハルヒ』のキョンに対し、『僕はやっぱり気づかない』の諦は、この「退屈な」現実を「面白い」ものとして肯定します。

その結果――
キョンにとって、SOS団で宇宙人や未来人や超能力者と出会い、おまけに世界の命運まで担うことになってしまったのは「忘れていた夢が図らずも叶ってしまった」ことになりますが、しかしその実態は思っていたのと随分違って、ワガママな女(ハルヒ)のご機嫌を取りつつ遊んでいるだけ…という理想と現実のギャップもありました。
それでもキョンは結局、そんな非日常な現実が面白いと思う(あるいは初心を思い出す?)ことになるわけです(この世界を望むか? 参照)。
元々「平穏」「フツー」「退屈」を望んでいた主人公達には、そうしたアンビヴァレントな感情はありません。
ただ「面倒事に巻き込まれた」というだけです。

『ニャル子さん』の真尋は「お前もう宇宙に帰れよ」と、迷わずに冷たく邪神の美少女をあしらいます。
『俺がヒロインを~』の烈火は、熱血主人公らしく窮地にあるヒロインを見かねて助けることに決めるものの、烈火自身がヒロイン達に特別な感情を抱く余裕などはありません(ヒロイン達とフラグは立てても「誰かを選ぶ」ことは出来なかったのも、分からないではありません)。
『僕はやっぱり気づかない』の諦に至っては、厄介な事態に気付く気すらありません(この意味では究極のあり方です)。

「何だかんだ言って、主人公は冒険を楽しむ」というのも「お約束」の一種ですし、そもそも読者からして非日常を求めてこの手の小説を読んでいるはずですから、ある程度非日常を求める主人公の方が読者の目線に近いだろう、というのも常識的な考え方でしょう(主人公は共感の対象でなくとも良い、という考え方は当然あり得ますが)。
だからこそ、それを反転するのが、「お約束」を引っ繰り返すというギャグになるわけです。

さて、これをただちに「最近の傾向」と言えるほど諸々の傾向を把握しているわけではもちろんありませんし、何でも「現代のあり方」に結び付けるのも良い思考習慣ではないのでやめておきますが、ただこの傾向は「日常系」と言われるコンテンツの流行と、ある程度は関係があるのかも知れません。
ここで言う「日常」は、決して「何も起こらない」とか「同じようなことを繰り返している」というのではないでしょう。むしろ、「日常だって面白いことがたくさんあるではないか」という気付きです。

 ……まあ、いいか。巻き込まれたくないし。
 過激な物騙りは、もうたくさんだった。
 僕は関わりたくないし、マユを関わらせたくもない。
 日常の価値は非凡であるというのが、当初から一貫して訴えているテーマなのですよ。
  (『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん8 日常の価値は非凡』、電撃文庫、2009、p.35)


幼少時の誘拐監禁に始まり、毎回事件に巻き込まれてはたいてい大怪我で入院し、身も心もボロボロになりながら、それでも飄々と生きているみーくんが言うと、この言葉は重い。
まーちゃんといちゃついて「やっぱ僕、ちょー幸せ」(7巻、p.243)なんて言っていても(ついでに、他にも可愛いヒロインに囲まれていても)、何だか信じられなくて、もう事件には関わらないで平穏に生きて欲しい、と思える主人公でした。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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