スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

運命に内在する――受動的なヒーロー

平成『仮面ライダー』シリーズのプロデューサーである白倉伸一郎氏が『仮面ライダー龍騎』で「子供たちに正義を伝えられるか」という問題にぶつかり砕けた後で上梓した『ヒーローと正義』は、第一章「『正義のヒーロー』はどこにいる」でまず、何がヒーローをヒーローたらしめるのか、という問題を論じています。

ヒーローと正義 (寺子屋新書)ヒーローと正義 (寺子屋新書)
(2004/05)
白倉 伸一郎

商品詳細を見る

桃太郎は鬼退治をしますが、鬼がどんな悪事をしたのかははっきり描かれていません。
金太郎に至っては、どんな活躍をしたのか描かれていません。
それでもヒーローはヒーローなのです。

白倉氏はスサノオのヤマタノオロチ退治まで物語の祖形を遡りますが、結論を言えば

1. ふしぎな出生
2. 怪物の退治
3. 女性(お姫様)を助ける
4. アイテム(宝や褒美)を手に入れる

という四つの要素があって、これらは後ろから順に抜け落ちていく傾向があり、たとえば金太郎の場合には1(山姥の子として生まれた怪童だった)だけが残った、ということです。
つまり、活躍の内容ではなく出生こそがヒーローをヒーローたらしめる、ということです。

さらに第二章以降では敵の「鬼」「怪人」「怪獣」等はなぜ悪とされるのか、という話になりますが、ここでひとまず白倉氏の論からは離れましょう。
ヒーローは出生によってヒーローとなる、というのは、決して「氏が育ちか」という類の話ではないでしょう。
端的に言えば、生まれというのは「自分ではどうにもならないもの」の代表です。
つまり、ヒーローは運命的にヒーローたることを定められている、ということです。

古今東西数多くのヒーロー物で、「未熟なヒーローが成長し、実力を付け、ヒーローとしての自覚を持つようになる」という話はありふれています。このことに疑問を持つ人はあまりいないでしょう。
しかし、ここから分かるのはまさに「ヒーローは自覚を持ったり一人前になったりする前からヒーローである」ということではないでしょうか。
逆に、「今のヒーローより自覚も実力もある」人物が登場して、ヒーローに「君はまだまだだ」と言っていくこともありますが、そんな人物でも「代わりにヒーローになる」ことはできません。こうしたエピソードは「現ヒーローが発奮し、一人前に近付こうとする」過程として描かれるだけです(新しい例で言えば、経験も実績もある「往年のヒーロー」がゲストとして登場する『海賊戦隊ゴーカイジャー』にも、そんなエピソードは少なからず見付かります)。

これは別に不当なことではなく、「自覚を持ち、努力し、実力を身に付けたからといって、誰でもヒーローになれるわけではない」というのは、全く当然のことです。


そう考えると、山川賢一氏の『魔法少女まどか☆マギカ』論にも、ある留保を求めたくなります。
氏はこう書いていました(再引用)。

 虚淵玄は『まどか☆マギカ』で、悲劇から進化したまったくちがう二つの系譜――「非人間的な秩序」ホラー、ヒーローもの――を、ふたたび、しかし逆転したかたちで接合している。苦しみの運命に耐えることで英雄になる物語を、英雄でありつづけなければ死ぬという運命に苦しむ物語に変形させたのだ。
 そのため『まどか☆マギカ』では、おのれの意志を貫くヒーローと、意志を持たず本能に操られるゾンビという、ほんらいは正反対であるはずのものが一致してしまう。
 (山川賢一『成熟という檻 「魔法少女まどか☆マギカ」論』、キネマ旬報社、2011、p.184)


氏がここで念頭に置いている「悲劇」とは遡ればギリシア悲劇ですが、そこでもやはり英雄は「苦しみの運命に耐えることで英雄になる」と言うよりも、出生からして特殊であり、しばしばその一生まで「運命」として決定されていました。

もちろん、だからと言って「英雄がこのように運命に対し受動的であることはあらゆる作品に共通することであり、そこに『まどか☆マギカ』の固有性はない」と言ってしまえば暴論であるばかりでなく、「同じモチーフがどの作品でも必ず同じ意味を持っているかのように論じること」(同書、p.9)を避けようとする山川氏に対し誠意を欠くことになるでしょう。
それどころか、物語の描き方としてはここに常識の「逆転」を見るのも、『まどか☆マギカ』の固有性を見て取るのも正当であり、氏は重要な点を解明した、と思います。
が、上記の点を踏まえて考えるなら、『まどか☆マギカ』の真の固有性は、この英雄の受動性という問題を正面から受け止め、徹底して突き詰めたことにあるのではないか、ということです。

ここで否定されるのは、「運命を強いられている」という受動性を英雄の自発性と対立するものと考え、自発的な者が鎖で縛られているとか檻に閉じ込められているようにイメージすること、あるいは「自発的な英雄と運命の戦い」といった水準で考えることです。
そのように考える限り、「そのような“運命との戦い”を強いているもの」(あえて言うなら「メタ運命」というところでしょうか)は捉えられないまま、単に問題を先送りにしただけになります。
私が以前、第10話の展開を「ほむらと運命の戦い」と捉えることを否定したのも、今の言葉で言い直すなら、このような話になります。

だからまどかは、本人もあずかり知らぬところでほむらがやって来たことにより「最強の魔法少女」たる運命を背負わされており、それをただ引き受けるのです。
そうして「運命に対し受動的なヒーロー」たることを徹底することで、その受動性が自発性へと転じ、希望が肯定できるようになる一点えと突き抜けようとする……

よくぞこんなことが可能になったものだ、と思います。
                           (芸術学4年T.Y.)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
参考文献
私が展開している思考の拠り所など(一部)。
スポンサー広告
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。