スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

小説のレイアウトの問題

「ケータイ小説」というのも一頃話題をさらってすぐに過ぎ去って行った感がありますが(今でも存在してはいるんでしょうか)、それを国文学者・石原千秋氏が論じたこの本が出版されたのは、わずか3年前だったりします。
130ページもない薄い新書です。

ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書)ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書)
(2008/06)
石原 千秋

商品詳細を見る

余談ですが、「携帯電話」の「電話」を取って「ケータイ」にしてしまったので、そこに「小説」を繋ぐと「逆に、携帯できない小説ってどんなんだよ」とつい言いたくなります。
まあネタはこれくらいで。

私はケータイ小説を読んでいませんし、石原氏の分析にコメントすることもあまりありません。
ちなみに「文学か」という問いに対し石原氏は早々に「『文学』としか言いようがないだろう」と言い切り、「ケータイ小説とはどのような文学か?」という問いのみに絞っていますが(『ケータイ小説は文学か』、pp.18-19)、私も“文学かどうか”にはあまり興味はありません。
そこで議論になるのは、「文学」という言葉に「高尚さ」と言った意味合いを含めるかどうか、そして「高尚さ」という曖昧な概念をどう捉えるか、という問題でしかないからです。

では何かと言うと、石原氏は田中久美子氏の「ケータイ小説はケータイで読まなくてはならない」「書籍版のケータイ小説はもはやケータイ小説ではない」という文章を取り上げ、批判しています。

 こういう初出原理主義(?)を押し通すなら、たとえば「文庫」という出版形態は全面的に否定しなければならないだろう。出版物が文庫に到るまでには、多くの場合二つの版を経過している。まず、雑誌などにはじめて活字として発表される「初出」、次にそれを単行本にした「初版」、そしてふつうはさらにそれを文庫にするのである。もちろん、初出と初版はずいぶんイメージは異なるし、文庫となればさらにイメージは異なる。だから、「文学作品は初出で読むべきだ」という研究者もいる。「初出」でなければわからない情報があるのも事実だ。しかし、それは研究上の話である。一般読者の享受を考えれば、文庫を否定することはできない。
 (……)
 もっと言えば、原稿用紙に書いていた時代には、公にするときにはそれが活字になるのだから、形態が変わってしまうのである。それでも、好事家や研究者を除いては、小説は原稿で読めとは言わない。
 (石原千秋『ケータイ小説は文学か』、ちくまプリマー新書、2008、pp.24-25)


言っておきますと、石原氏がこの話を通して主張しているのは「ジャンルというものの意味」です。

 いまやケータイ小説は、産出形態から名づけられたジャンル名なのである。極端なことを言えば、原稿用紙に書いたものをパソコンに入力してからアップロードしても、ケータイ小説なのである。ケータイ小説というが確立すれば、もう厳密な算出形態は問われないのである。ケータイ小説はケータイのディスプレイに表示されるプロセスがありさえすればいい。それがジャンルというものの強度だ。ケータイ小説はジャンルとしての強度を守れる限り、続くだろう。逆に言えば、ジャンルとしての強度を守れなくなったとき、消えるだろう。そこで、こういうことになる。「ケータイ小説はケータイで読まなくてはならない」という田中久美子の言葉が「ケータイ小説のジャンルとしての強度はそのようにしてしか守れない」という意味ならば、正しいと言えるということだ。
 (同書、pp.25-26)


ですから、この話は分かります。
が、少しだけ言っておきたいのは、「しかじかの形態で読むべき」という主張はたんに「初出原理主義」といった問題だけでなく、「どのように読まれるべくして作られているか」という問題に関わってくるのではないか、ということです。
ただ「オリジナルな形が良い」というのなら生原稿で読むべきということになりますが、そもそも生原稿はそのまま読まれるべくして書かれたものではありません。
しかし、ワープロソフトの使える今では、「1ページは何文字×何行」というところまで計算して執筆することが可能になります。ページのレイアウトも、見せるための道具の一つになり得るのです。

たとえば、京極夏彦氏の小説は'99年の『鉄鼠の檻』の頃から、一文がページをまたぐことがほぼありません。出版形態を変えたものについて隅々まで確認できてはいませんが、多くは形態が変われば、改行の仕方等を変えて対応しています。
ライトノベルでは時々、フォントのサイズや形を変える手法が見られ、さらにページをめくったところで一転するよう配置を計算しているものもあります。イラストの配置も計算づくとしか思えないものが見られます。

こういうものは、やはり「文体」や「人物造形」等々と同じく技巧の一つとして、論ずるに値する対象ではないかと思うのですね。

19世紀の詩人ステファヌ・マラルメはすでに、文字の配置を変則的にして視覚的に訴える詩を書いていました。

マラルメ 詩
 (クリックで画像拡大されます)

左下にあるのは訳文です。ちょっとこのサイズでは読めませんが。
こういうものは今でもなお「アヴァンギャルド」で「特殊な例」と見なされがちな感もありますが、しかし実は現代の作家はこうした「技巧」をも使っている例が結構あるのではないか、と。

もっとも、そこからケータイ小説の場合「携帯電話の画面に表示される形態」の優位がただちに導かれるかというと、そうではありません。実は「書籍で読んでも問題ない」のかも知れません。

そもそもケータイ小説のまた少し前にはライトノベルについても「文学か」という同じような論争が行われていたものですが…
しかしライトノベルが出版形態を変えて再版されるという話はまだあまりありませんが、イラストの重要性という問題もあり、これはまた問題になってくるかも知れません。
そう言えば、『涼宮ハルヒ』の英語版・フランス語版にはイラストはありません。
すでにして、ここにはライトノベルの受け取り方の微妙な違いも伺えますが。
ライトノベルの中には(さすがに少数ではありますが)イラストを本文の一部のように組み込んでいる例もあり、イラストが削られるとちょっとおかしなことになるのではないか、と(そんなものが翻訳されるかどうか知りませんが)。
もっとも、ヨーロッパの出版社は学術書(芸術論)でも平気で図版を削っていることがあるので、同じような扱いを受けるのかも知れません。

最期に、石原氏の主張した「ジャンル」の問題も少々。
ライトノベルと一般小説を又にかけて活躍している作家も少数ながら存在しますし、そういう作家の作品がレーベルを変えて出る可能性もあるでしょう。
そういう時、なおそれは「ライトノベル」と呼ばれるのか…どうでも良くなっている可能性も、十分ありそうに思えます。
                           (芸術学4年T.Y.)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
参考文献
私が展開している思考の拠り所など(一部)。
スポンサー広告
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。