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成長する人物としない人物

受験する予定の大学院を訪問する話は何度かしましたが…
あるところでは先生からメールの返信をいただいてお会いすることができ、別のところでは「先生はしばらく大学にお見えになりません」とのこと。
これもご縁、と考えるべきでしょうか。

古来、弟子入りする時には門前に何日も座り込んだりして「私を弟子にしてください!」と頼み込んだりするものですが、まあ当然ながら、大学院に行くのにそこまでする必要はありません(院試で合格点を取らねばどうにもなりませんが)。
うん、ご縁のあったところに行って、そこに自分を合わせるのも悪くないかな、と。

実は、それとは別に第一志望は(一応)決まっているのですが。

 ~~~

話は変わって…
漫画評論家の伊藤剛氏は著書『テヅカ・イズ・デッド』において、「キャラクター」と「キャラ」を区別しました。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へテヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ
(2005/09/27)
伊藤 剛

商品詳細を見る

この本は持っていたはずですが…見付かりませんでした。
まあ、あるものはいずれまた出て来ます。
どうせ読んでいる時間もない可能性が高いですし、伊藤氏の著作には触れられません。

その代わり…と言うのもどうかと思いますが、斎藤環氏の『キャラクター精神分析』から少し引いておきます。

 (……)伊藤は「キャラ」を次のように定義する。
「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの」
 これに対して、「キャラクター」は次のように定義される。
「『キャラ』の存在感を基盤として、『人格』を持った『身体』の表象として汲むことができ、テクストの背後にその『人生』や『生活』を想像させるもの」
 (斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』、筑摩書房、2011、pp.88-89)


ただ、後半の斎藤氏自身の分析において、この記述はあまり問題にされません。本書は基本的には「キャラ」とは何かを問うているわけですが、タイトルは『キャラクター精神分析』ですし(しかし、このような「タイトルと本文での用語法の違い」はしばしば起こる事態です)。
とは言え、こうした「背後」に「人生」や「生活」を感じさせるかどうか――ひいては「内面」を持ち「成長」するかどうか、といったことにも繋がってきます――という論点は、終盤の「人間」と「キャラ」の違いという問題に引き継がれているようです。

「人間」と「キャラ」の違いは、「固有性」と「同一性」の違いを考えることだ。本書のこれまでの考察で、すでにその違いは明らかになっている。主立ったものを列挙してみよう。

 ・キャラは交代人格(DID)である。
 ・キャラには「父の名」がない。
 ・キャラは記述可能な存在である。
 ・キャラは潜在的に複数形である。
 ・キャラは葛藤しない。
 ・キャラは成長・成熟しない。
 ・キャラはそれぞれ一つの想像的身体を持つ。
 ・キャラは固有名と匿名の中間的存在である。

 見方を変えると、人格の統合性や葛藤、単独性や固有性、および記述不可能性、さらに成長や成熟の可能性こそは、キャラとは異なる「人格の深さ」であり「人間の条件」と考えることも可能だ。
 ここに精神分析的な視点を追加するなら、「人間には欲望があるがキャラには欲求しかない」「人間は言葉を語り、キャラは記号を出力する」「人間とは異なり、キャラのコミュニケーションは完璧である」などのリストが付け加えられるが、それはおそらく「人間と動物の違い」の記述に限りなく近づいていくだろう。
 (同書、pp.239-240)


いくつかは精神分析と哲学の知識がないと何のことだか分からないかも知れませんが、まあ別に無理して今理解しなくてもいいです。
また、斎藤氏の主張は「キャラ」が「人間」や「キャラクター」の構成要素なのではなく、「人間」の同一性を抜き出したものが「キャラ」なのだ、というものですが、その辺は別の機会に紹介しました。

物語に登場する「キャラ(クター)」について考えた場合、「葛藤する」「成長・成熟する」「人格の深さ」などと言うと、そういう「深さ」を描く作品とそうでない(薄っぺらな)作品、という区分を考えてしまいがちですが、必ずしもそういう問題ではないようです。
最初に引用した箇所の直前を見てみましょう。

 伊藤は二〇〇三年に、やおい同人誌を制作していた一〇代後半の少女たちから、ある指摘を受けて意表をつかれる。それは当時、絶大な人気を集めていた少女漫画『NANA』についての指摘だった。彼女たちによれば「『NANA』は『キャラ』は弱いけれど『キャラクター』は立っている」というのだ。ならばキャラが強いマンガは? と問い返した伊藤氏に、彼女たちは『遊戯王』の名前を挙げた。
 (同書、p.88)


確かにここから『NANA』と『遊戯王』の違いについて語ることも可能ですが、むしろ言えるのは、同じものについて「キャラ」と「キャラクター」の両方を語ることができる、つまり「キャラ」と「キャラクター」は語る側の視点の取り方のようなもの、ということではないでしょうか。


「キャラ」と「キャラクター」あるいは「人間」の区別にそのまま対応するわけではなく、また少し別の話になってきますが、成長するかどうかという点に関しては、同一作品内で使い分けられるものでさえあります。
主人公の成長を描くビルドゥングスロマン(教養小説)でも、脇役まで――人生の終わりに近い老人も打ち倒される敵役も――皆揃って「成長」するわけではないことは、言うまでもありません。

『魔法少女まどか☆マギカ』に、まどかの「成長」物語を読み取って良いのかどうかについても、議論があります。
否定的な見解を一つ挙げれば、

 過去のループで、さやかが魔法少女となるのは一度しかない。(……)
 対してまどかは、どのループでも魔法少女になってしまう。まどかの魔法少女適正はさやかやほむらよりそうとう高いのだろう。他の各話で強調されるまどかの気弱さは、『まどか☆マギカ』が、まどかが魔法少女となるまでの成長を描く物語であるかのような印象を抱かせるためのミスリードでもある。過去のループが示すように、どのような経過をたどろうと、正義の人まどかは、最期には必ず魔法少女として「ワルプルギスの夜」と戦い、そして死ぬ。
 (山川賢一『成熟という檻 「魔法少女まどか☆マギカ」論』、キネマ旬報社、2011、p.166)


言葉の曖昧な意味を弄ぶことにならないよう、あらかじめ言っておけば、これはまずもって「成長」にどのような意味を求めるかの問題です(山川氏がこの後論じる――表題にもなっている――「成熟という檻」に関する論が今一つ弱いように思われるのも、「戦いの運命を選ぶことが成熟の象徴だとするなら」(同書、p.172)と、あまり論を詰めることなく仮定形で「成熟」を規定して済ませているからでしょう)。
しかし、内的な動機に突き動かされ、研鑽して(精神的にも能力的にも)力を付けていく――といったイメージで「成長」を捉えるならば、ほむらはそれに完璧に当てはまるけれど、まどかは違う、と感じるのが自然でしょう。
脚本の虚淵玄氏もそう思ってか、「成長する主人公」はほむらであり、まどかは「成長」するわけではないとしているのは(これも以前少し触れました)、「成長する/しない」には戦略的な使い分け、あるいは役割分担があることを示しています。
 (『まどか☆マギカ』の話では「成長」の話については、続くかも知れません)
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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