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「自分の視点なら分かる」の錯覚

まずは引用から。

大森〔望〕 谷川〔流〕さんは、ライトノベル育ちというよりは、「長門有希の100冊」を見てもわかるように、SFやミステリといったジャンル小説をはじめ、漫画も含めて、すごく本を読んでいるひとですよね。もともと別名義で書評サイトを開設していて、SFの書評なんかもたくさん書いていたので、僕はそっちで名前を知っていた。そのひとが今度デビューするというから、乾くるみさんに続いてまた書評系テキストサイトから期待の新人が出るんだな、とか思っていたわけです。
 で、実際に『〔涼宮ハルヒの〕憂鬱』を読んでみたら、なるほど非常に達者な小説だった。言うなれば、ライトノベル外部のひとがライトノベルを客観的に分析してクールに再構築したような作品だから、そういうのが好きな、一歩引いた読者にはウケるだろうけど、ライトノベルど真ん中の読者にとってはどうかな、と。
 ところが現実には、ベタな萌え要素を計算ずくで配分したところがウケたわけで、それこそ東浩紀の『動物化するポストモダン』を実証したみたいな感じ。
 (佐々木敦×大森望「涼宮ハルヒは止まらない!!」『ユリイカ 臨時増刊号 涼宮ハルヒのユリイカ!』、青土社、2011、p.12)


 東浩紀は、「涼宮ハルヒ」シリーズについて、「かなり変わった小説」と評している。東は言う。「ライトノベルの手法や、『セカイ系』などと呼ばれるオタク達の自閉的想像力をパロディー化した技巧的な設定を導入しながらも、物語としては安定感があり、作家の力量を感じさせる。一種のメタライトノベルなので初心者には不向きだが、『こんな奇妙な小説が一〇〇万人に読まれているのか』と驚くには、よい例かもしれない」と(「ライトノベルという驚き」『論座』二〇〇六年八月号)
 (斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』、筑摩書房、2011、p.224)


このような書き方にはいささかの疑問を感じます。
前者で言うと、「非常に達者な小説だった」「ライトノベルど真ん中の読者にとってはどうかな」と言えるということは、大森氏自身は「ライトノベル外部のひと」の視点を持っている、と言いたいのでしょう。そして多くの読者にとって「ウケた」のはもっぱら「ベタな萌え要素を計算ずくで配分したところ」であると(特に根拠も挙げず)断言しています。
結局、この手の言い回しには、「自分たち“コアな読者”はこの作品の独特なところが分かるが、“一般読者”は表層的なところだけを楽しんでいる」という自意識の変形のようなものが透けて見えます。

しかし、そういった考え方は一般読者を侮っているというだけでなく、そもそも「自分達には分かる」というのが思い上がりではないでしょうか。

真に新しい作品は「コアな読者にだけ分かる」などとケチ臭いことを言いません。誰も「それを分かるための枠組み」を共有していないものを描きます。そして鑑賞者の方に、作品に合わせて自らを変えるよう迫るのです。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第四部は自費出版で四十部刷られ、世に出たのはわずか七部に過ぎなかった。『パルムの僧院』の末尾にスタンダールがTo the happy fewと英語で記したのは、同時代の読者を得られないことを覚悟していたからである。ミシェル・フーコーは『言葉と物』を出版するとき、この書物を理解できる読者をフランス国内で最大二〇〇〇人と見込んでいた。
 彼らの書物は同時代人の「あらかじめ存在していたニーズ」には対応していない。だが、その書物が出現したことによって、同時代人は、その書物が出現するより前とは違うものになる。それらの書物は同時代の読者のニーズには対応せず、同時代のリテラシーを超えていた。だから、それらの書物が生き残るためには、「そのような書物を求める読者」「そのような書物を読むことができる読者」を想像するところから始めるほかなかったのである。
 書物というのはそのように生成的なものである。真に「古典」という名に値する書物とは、「それが描かれるまで、そのようなものを読みたいと思っている読者がいなかった書物」である。書物が「それを読むことのできる読者」「それを読むことに快楽を覚える読者」を創るのであって、あらかじめ存在する読者の読解能力や欲望に合わせて書物は書かれるのではない。
 (内田樹「地球最後の日に読んでも面白いのが文学」『中央公論』2011年11月号、中央公論新社、pp.89-90)


『涼宮ハルヒ』シリーズが「古典」の名に値するほどのものかは留保するとしても、果たして「初心者」でない人間(「初心者」が「ライトノベル初心者」を指すのだとすれば、「ライトノベルの手法に馴染んでいる人」でしょうか)なら「分かる」程度のものだったのかどうかは、よく問うておくべきでしょう。

そもそも「一歩引いた読者」は「ライトノベルを客観的に分析してクールに再構築したような」ところを楽しみ、「ライトノベルど真ん中の読者」は「ベタな萌え要素を計算ずくで配分したところ」に反応するという二分法が本当に成立するのかどうかが問題です。
現に、最初の大森氏の発言を受けて対談相手の佐々木敦氏は「『ハルヒ』は見ようによってはそういうオタク像をカリカチュアライズしていて、しかしオタクの側もそれをあらかじめ織り込んだ上でなおノれるという、需要供給の双方が新たなステージに入ったと思わせるところがあったんです」(前掲『涼宮ハルヒのユリイカ!』、p.12)と言っていますが、対して大森氏は「それはそうだったと思います」と言いつつ、「ただ、いまの『ハルヒ』人気はもはやそういうことともあんまり関係なくて、結局、二〇〇六年の京都アニメーションによるアニメ版が大ヒットしたことがいちばん大きい」(同書、p.13)とあっさり返しています(「アニメ版が大ヒットした」のがなぜかは触れないまま!)
この辺、両氏の見解にはズレが見られます(まあ、対談なのであまり追究できないのも仕方ないことですが)。

以前引用したように、前島賢氏は「ポスト・エヴァ」の時代に生じた「ふたつの実存的な作品受容態度」が「萌え」と「セカイ系」であるし、『ハルヒ』は「まさにその両者を総合した作品」だと述べていました。そしてその上で、「セカイ系」の特徴を「メタ言及性」に求めました。
「メタ言及性」とは、まさしくハルヒやキョンが「宇宙人や未来人や超能力者」の登場するサブカルチャーによく慣れた人間の視点から、そんな存在に出会うことに憧れていたの現実にはそんなものはいないのと言い、その上で「宇宙人や未来人や超能力者」を登場させる、という構造のことです。
この観点から見ると、大森氏はこの二点の内「セカイ系」を排除して「萌え」のみに「ウケた」理由を求めていることがよく分かり、それでは不十分ではないかという疑問も生じます(まあ、「セカイ系」がすでに過去のものとなった証かも知れませんが)。

 少年は少女を守るためなら世界が滅んでもかまわないと決断し、そんな決断をした少年を守るためにこそ、少女は世界を救い死んでいく。『イリヤ』で描かれるのは、そんなオーソドックスだが、それゆえに感動的な物語だ。のちに多くの論者が本作をセカイ系の代表作として挙げたのは、この明確な構造ゆえだろう。
 しかし一歩、後ろに下がれば、その物語は、あらかじめ軍部によって仕組まれたものに過ぎず、少年も少女も、世界を守るため、単に道具のように配置され、使い捨てられたに過ぎないという事実も浮かびあがってくる。表層的には、少年と少女の悲恋を描いた「泣ける物語」でありながら、そんな物語への批判的な視点を有した、複雑な作品だと言える。
 ゼロ年代中盤以降、セカイ系という言葉が流行した時代、意図的にセカイ系的な構造を作中に導入し、それに批判的検討を加える作品が現れてくる。この点で、『イリヤ』は、そうした作品の先駆をいえる。にもかかわらず、そんな作品が『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』とともに、セカイ系の典型とされてしまうところに、セカイ系という言葉が持つやっかいさがある。
 (前島賢『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』、pp.98-99)


「外部のひと」が「客観的に分析」したような批判的な視点を含む作品が「ど真ん中の読者」に享受され、それが矛盾でないようなあり方が成立していると考えた方が、適切ではないでしょうか。

さらに言えば、このようなメタ言及性・自己批判性を含むのは、たとえば岡田斗司夫氏が語っていた「オタク」のあり方でもあります(岡田氏が『オタク学入門』で挙げていた『魔法陣グルグル』のRPGパロディ『クレヨンしんちゃん』のアクション仮面ネタは、今見るとずいぶん大人しいネタです)。そのような自己批判的な視点を保ちつつも同時に没入するのが「オタク」である、というわけです。
さて、東浩紀氏も『動物化するポストモダン』でこうしたメタ言及的な構造に触れ、たとえばシナリオの分岐するギャルゲーの構造をシナリオに取り込んだ「メタギャルゲー」でもある作品として『YU-NO』を挙げています。しかし他方では、岡田氏の語っていたようなオタクのあり方――東氏は「スノビズム」であるとします――が失われたというのが、「動物化」論の大前提です。
私の読みが浅いからだという批判は甘んじてお受けしますが、なぜそうなるのか、よく分かりません。

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                           (芸術学4年T.Y.)

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コメント

No title

「変形」を「偏見」と読み違えてしまいw
でも。
前後を再度読み返したら、ニュアンス的に間違ってない読み間違いじゃん(笑)って。
思いません?

Re: No title

まあそうですねぇ。
しかじかの自意識と大森氏の発言に見て取れる意識とはイコールではないかも知れないという考えもあり、また「自意識のヴァリアント」といった表現も考えましたが、カタカナ表現の多用は避けたいとか、色々と考えはしました。
別にどうでもいいんですが。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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