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どの限りで「成長を描かなくなった」のか

ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? (光文社新書)ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? (光文社新書)
(2011/08/17)
ひこ・田中

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第1章「テレビゲーム」
第2章「テレビヒーロー」
第3章「アニメ(男の子編)」
第4章「アニメ(女の子編)――魔法少女」
第5章「世界名作劇場」
第6章「マンガ」
第7章「児童文学」

という構成で順次「子どもの物語」を検討、かなりの数の作品の読解を通して「成長を描かなくなった」流れを示した後、最後の第8章「子どもの物語たちが示すもの」でそれまでのまとめと、「なぜ」に関する一応の解答を述べています。
「テレビゲーム」は当然、「ファミコン」の登場した'83年から、「テレビヒーロー」は'58年の「月光仮面」辺りまで遡ります。「成長を描かなくなった」のは2000年代に入った辺りから、分野によっては90年代の内から、ですね。
テレビゲーム編の「ドラゴンクエスト」と「ファイナルファンタジー」の比較とか、テレビヒーロー編の番組の対象年齢と制作陣のギャップの話などは楽しんで読めました。

面白い分析はたくさんありましたが、しかし、個々の作品をよく知る人からすると異論もあるのではないか、と思われる箇所も少なからずありました。まあ、何事もトリヴィアルなことを言い出せばキリがないという意味で、ある程度は仕方ない面はありますが、その背景には「“成長を描く”とはそもそもどういうことか」という、決して小さくない問題があります。

たとえば、『機動戦士ガンダム』の場合、大人社会が「戦争のために機能不全を起こして」(p.155)いる状況で、ホワイトベースに乗り込んで戦うのは主人公のアムロを含め皆(未成年という意味で)子どもであること、アムロの両親も「共感・尊敬できない」(pp.160-161)存在であり、目標にも乗り越える対象にもなり得ないこと、そしてラストではアムロはホワイトベースに帰還することで「また子どもたちに回収され」(p.172)ることが指摘されます。
実を言えば私はガンダムにはあまり縁がないので、こうした分析が『ガンダム』の内容に照らし合わせてどれだけ妥当かを検証する力はありませんが、まあここまでは論理的におかしいとは思いません。
気になったのは、「成長の指標」となる大人が存在したかどうかで、アムロに「ぼくは、あの人に勝ちたい」と思わせながら自爆して死んで行ったランバ・ラルを取り上げる箇所です。

 酒場で出会った子どもが敵兵なのを知り、その子どもがガンダムの乗り手だったのに驚き、ホワイトベース制圧では、乗組員が子ども兵ばかりなのに不信を抱き、その子ども兵の中にセイラがいたことにショックを受け、子ども兵の一人に撃たれ、「年端のいかぬ少年達とは」とつぶやき、自爆する。
 これは、敵が「子ども」そのものだったことを知っていく過程です。ほとんど制圧寸前まで行っていたラルは、「子ども」という存在に敗れたのです。ホワイトベースの乗組員たちは、「子ども」だから勝ったと言い換えてもいいでしょう。
 そして自爆という結末は、アムロにとって「ぼくは、あの人に勝ちたい」と願う成長の指標が消え失せたことを意味します。つまり、大人の価値がラルによって強烈に示されているようでいて、実は乗り越えるべき存在である点は回避されてしまっているのです。
 (ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』、光文社新書、2011、p.168)


大人に対する「反抗」や「対立」という契機の重要性は分かりますが、死んでしまって実際に「乗り越える」ことができなくなった相手は「成長の指標」とならないという考え方は、かなり疑問を感じます。
そもそも現実には、本当に「乗り越えた」のかどうか、分からないことがほとんどのはずです。むしろ、「自分は目標を超えた」と思う時こそ、「指標が消え失せ」、成長するのをやめて堕落し始める時ではないでしょうか――「ここまで成長すれば終わり」などという地点はないというのに。
むろん、ではラルの存在はアムロの「成長」にどれだけ寄与しているのはやはり成長は「描かれていない」のかは別の問題ですが、どうも「父殺し」モデルに囚われすぎている感があります。

その他、細かいことを言い出したらキリがありませんけれど、第8章におけるまとめで付け足される例は、より疑念を強めます。
たとえば、『仮面ライダーディケイド』についてはこうです。

 最終回、すべてのライダーがディケイドを倒そうと集結し、ディケイドがやられてしまう瞬間で終わり、その後、続きは冬休みの劇場版でという予告が流れます。が、テレビと映画では見る側の事情が全く違いますから、資料として劇場版を参照する必要は全くありません。従って、『ディケイド』はテレビ版の最終回で判断して良いのですが、そうすると、過去の仮面ライダーを破壊する者として現れたディケイドの物語は、主人公が消失してしまい、終われない物語となったといえるでしょう。
 ディケイドである門矢士は、放映開始の頃、俺様モードで現れ、戦う過程で仲間との信頼を学習し成長していくのですが、その結果はわからないまま消えるのです。
 (同書、p.353)


しかし、同じシリーズの別作品を扱ってその変遷を検証し、さらには異なる様々なジャンルの作品が「成長を描かなくなった」ことでは共通していると主張してきたのに、予告された続きを「見る側の事情が全く違」うからといって、「参照する必要は全くありません」という強い言葉で切り捨てるのでは、我田引水の感は免れないでしょう。
まあ『ディケイド』に関しては冬の劇場版を参照しても「成長を描かない」という点に関しては近い結論を引き出せそうなものですが、それをしない理由は(紙面の都合でなければ)、「FFX」の主人公ティーダが最後に消えるという、第1章で挙げた例(および、それに近いいくつかの例)と重ねたいからではないでしょうか。

※ なお、『ディケイド』の最終回があのような形になった理由は『ディケイド』がメタ物語であり、作中で言われていた「世界の終わり」とは「最終回」のことだから、というのが私の考えで、今でも基本は変わっていません。

さらに、

 その後登場した『仮面ライダーW』(二〇〇九年)は、二人の人物が合体することでWになれるという設定です。これはWの側から見れば分裂です。常に二人のアイデンティhチを持たないことには実体を維持できないヒーローに、成長を望むのは酷な話でしょう。
 (同書、p.354)


このような理屈で、(合体してWに変身する)翔太郎とフィリップそれぞれの「成長」を全て無視するのはもはや牽強付会の域に達しています。

少々、細部を攻撃しすぎたかも知れません。
問題は「成長」の意味するところです。
「なぜ成長を描かなくなったのか?」の答えを考察しているのは最後の数ページですが、それによれば、そもそも大人と子どもの違いは「経済力」と「情報力」の二つに還元され、「成長を描かなくなった」理由は「情報量の増大と、それへのアクセス方法の簡易化による、大人と子どもの差異の減少」、とされています(p.358)。
しかし、このような「成長」の規定は同書中の以下のような記述と整合するでしょうか。

 多くの場合私たちは、自我を仕草や表情や言葉などの社会的に共有される記号に還元して世界と接触しています。生身の自我をそのままさらし続けていれば、心が保たないからです。その方法を身につけていくことも「成長」と呼んでいます。成長期の子どもにとって、大人が嘘つきに見え、嫌悪を覚えてしまうことが多いのは、それ故です。
 (同書、pp.186-187)


結局、「成長」という言葉にも色々な意味があります。それらに対する意識が変わり、物語における扱いも変わってきたのは事実でしょう。しかし、複数の意味を区別して、どの意味では「描かれない」のかを確認しておかないと、作中に見出されない意味だけを取り上げて「描かれていない」と言っているのではないか、という疑惑を禁じ得ません。

 ―――

少しだけ私の考えを。
たとえば、修行をして力を付けるのは「成長」でしょうか。そうだ、と考えるからこそ、スポ根ものに「成長」が見いだせるわけです。
しかし、『スター・ウォーズ』を観れば、フォース(そのまま「力」)には暗黒面(ダークサイド)もあり、そこに「堕ちる」ことがあり得ます。力を付けることと人格的な成熟は、つねに一致するとは限らないのです(現実にも、特定の能力はあっても人格的に未熟な人がいるのは周知の事実)。
ですが、理想的な「成長」とはそれら複数の意味での「成長」がまとめて起こることであり、さらに言えば、そのような「成長」が起こって当然と考えることこそ、(余計な疑念を挟まず)成長するよう人を駆り立てるために必要なことでしょう。
つまり、人々が成長するためのツールとして、我々は「成長」の複数の意味を区別しない思考習慣を持っているのではないでしょうか。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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