オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
外圧ではない抑圧に対する「抵抗」
先に紹介した『ふしぎなふしぎな子どもの物語』から。
〔ガンダムのように、胴体に操縦席があるタイプのロボットに登場した〕状態は包み込まれていることの安心感も生じさせ、『アニメの醒めない魔法』が指摘するように、メタファーとして子宮を思い起こさせるでしょう(それが嫌だったのか、『∀』での操縦席は男根に見えます)。
エヴァンゲリオンとパイロットの関係は、パワードスーツとパイロットではなく、まさにこの延長線上にあります。
操縦席は、「エントリープラグ」と呼ばれる円筒状のもので、エヴァンゲリオンの脊髄に挿入され、神経接続によって動かすようになっています。子宮と見なされてしまうガンダムの操縦席からの移動です。とはいえ、プラグ内は高酸素密度の液体で満たされますので、そこからは容易に羊水をイメージできてしまいますし、エヴァンゲリオン自体も基地から、へその緒そのものであるアンビリカルケーブルを使って電源を供給されています。
これは、何を意味するのでしょうか?
へその緒ケーブルを外しての戦闘は五分間だけですが、これはウルトラマンを想起させます。使徒と呼ばれる敵が現れ、戦いを挑むパターンもウルトラマンそのものです。
(……)
ウルトラマンは、地球外生命であるウルトラマンとハヤタ隊員が一心同体となった存在です。両者に自我があり、納得の上で合体しています。ところが、エヴァンゲリオンとパイロットは神経接続し、シンクロしていますから、両者の境界は曖昧で、溶け合っています。パワードスーツがパイロットの身体能力を拡張するものだとしたら、エヴァンゲリオンは、シンクロしたパイロットの自我を拡張したものといえます。
となると、アムロはガンダムの子宮に潜り込んで戦っていましたが、シンジたちは羊水に浸った状態で、自我がエヴァンゲリオンにまで拡張し、むき出しのまま使徒と相対していることになります。
へその緒ケーブルがパイロットとエヴァンゲリオンではなく、エヴァンゲリオンと基地を繋いでいるのは、エヴァンゲリオンそのものが胎児であり、その神経中枢がパイロットであるからのように見えます。
自我がむき出しのまま、ハヤタ隊員と違ってたった一人で戦っているのが、エヴァンゲリオンのパイロットです。とても痛々しい。
(ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』、光文社新書、2011、pp.184-186)
私はこのような解釈がまったく間違っていると言うわけではありません。
また、搭乗型ロボットの操縦席の位置は、「頭部」と「胴体」に大きく分けられますが、エヴァンゲリオンは「胴体」型に分類されるものの、より細かく言えば「腹部」ではなく「脊髄」であることは、注目してよいオリジナリティでしょう。
しかし気になるのは、エヴァンゲリオンが“母”であるという点(初号機にシンジの母・ユイが、弐号機にアスカの母が同化しているという、文字通りの意味で)には、田中氏が一言も触れないことです。
エントリープラグが「羊水」で満たされていることまで指摘しながら、「エヴァンゲリオンという母の胎内にいる」のではなく、「エヴァンゲリオンそのものが胎児」であって、パイロットはそれと同化しているとして、むしろ「子宮に乗り込む」ロボットとの差異を強調するのは、なぜでしょうか。
このような解釈によってほとんど体系的に取り逃されているのは、(平たく言えば)「成長を阻害する大人」という問題です。
『機動戦士ガンダム』には「乗り越えるべき相手、巣立つべき相手」が見つかりませんでしたが、『新世紀エヴァンゲリオン』には、子どもたちをそうした成長のシステムに乗せようという仕草すらなく、社会性を欠いた「らしくない」大人たちが、「大人になれ」と言いながら抑圧的に彼らを取り囲んでいるだけです。こうした、全く出口なしの状況を描いた物語が、出口を探すのを放棄するラストではなく、出口を示すラストを用意するのは至難の業です。
(同書、p.355)
はたして本当に、『エヴァンゲリオン』の大人たちは「大人になれ」と言っていたのでしょうか。
たしかに(私の記憶が正しければ)「シンジ、大人になれ」というゲンドウの台詞はありましたが、それは「私情を捨てろ」という程度の意味で、要するに「組織のために都合のいい人間になれ」という意味に過ぎません。
むしろ大人たちはエヴァのパイロットたる少年少女たちを大人にさせず、依存的にさせることで支配していたのではないでしょうか(旧『エヴァ』の桎梏は破れるか――『エヴァンゲリヲン新劇場版:破』参照)。
そしてそれを象徴しているのが、エヴァンゲリオンという母体が子どもを「飲み込む」という状況です(シンクロ率400%でシンジの姿が消えてしまった時のことを思い返してください)。
なるほど田中氏も、大人たちが「抑圧的」であるとは言いますが、その内実についてはほとんど語りません。
「出口なしの状況」であることは語りますが、そもそも出口が計画的に閉ざされていることには触れません。
これはやはり、「乗り越えるべき相手、巣立つべき相手」たる大人を相手に対峙し、「否定と肯定の葛藤」(同書、p.161)を経て大人になっていくという「父殺し」モデルを田中氏が念頭に置いているためではないでしょうか。そのため、外圧として立ちはだかるのではなく、子どもを依存させて支配する大人については、扱うことが困難なのです。
その結果、「『〔ガンダム〕ファースト』が先触れとして描いた、成長モデルが見えない時代の子どもたちにとって、『エヴァ』はその確認ではあっても、その先までを描いたものではない」(同書、p.189)と、随分簡単に扱われてしまいます。
このことは、権力の支配という問題を思い出させます。
古典的な考え方では、まず個々の人間がいて、権力は上からのしかかるようにして支配するものです。しかし他方では、権力の維持に協力するよう、各個人の内面を作り上げるのが権力だ、という考え方もあります。
ですがそうだとしたら、権力への抵抗は可能でしょうか。
(……)フーコーによれば、権力体制は、わたしたちを、まさにその根にいたるまで構成し、主体を、権力がもっとも効果的に機能sひゃすいような形式にしたてあげてしまう。しかし、もしそうなら、こうした上級をきわめていまいましいとみなすフーコーそのひとの主体のなかに、何かが「残留」していることになるが、その何かとは何か。もしあらゆる主体が、まず第一に、権力の効果にすぎないとすれば、こうした状況に対し抗議できないはずなのに、なぜそれがミシェル・フーコーにはできるのか。もし権力以外に何もないとするなら、権力にとって、区画化したりカテゴリー化したりする対象など存在しないはずである。だから、権力は思いわずらう必要などないではないか。ところが実際にフーコーが語っているのは、権力に抵抗することである。けれども抵抗するとは正確にはどういうことか。これが、フーコーの仕事にとっては、解消しようにも解消できない謎として残るのである。
(テリー・イーグルトン『イデオロギーとは何か』大橋洋一訳、平凡社、1999、p.112)
もっともフーコーの立場からするならば、イーグルトンはまだ「主体」が外からやってくる権力に対し抵抗する、というイメージに囚われている、という反論は考えられるのかも知れません。「主体が権力に対し抵抗する」のではなく、「権力以外に何もない」としても、権力そのものが(自己への)抵抗をも含む、とは考えられないでしょうか。
とはいえ、そういう状況を描くことが困難な課題であることは、変わりないでしょうが。
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(芸術学4年T.Y.)
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