オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
あらためて『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』
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おそらく「神戸連続児童殺傷事件」(別名「酒鬼薔薇聖斗事件」として知られます)のあった'97年か、その少し後くらいのことでしょうか。
TV番組で中学生が「なぜ人を殺してはいけないのか?」と質問し、その場にいた人達が誰も答えられなかった、という事件があった、と言われています。
いつの何と言う番組だったのか明記されている記述を見た覚えがないので、もう都市伝説に近い領域に入っていますが、とにかく、一時期様々な人達がこの問いに答えようと躍起になっていたことは、よく覚えています。
そもそも、皆がこの問いに「答えなければならない」と思って必死になってしまったこと自体が間違っていたのではないか、という意見もあります。
たしかに、そのような問いが出ることなく、「殺してはいけない」のが自明と思われている時こそ道徳が機能する時、というのは事実でしょう。
ただし、そのような意味では、倫理学者こそ「不道徳な」人間です。
そして、こんな議論に巻き込まれてしまった時点で人は倫理学の道を歩み始めているのですから、「このような“本来問うべきではないこと”が問われてしまう。現代はモラルの崩壊した時代だ」などと嘆くと、それはそっくりそのまま自分に跳ね返ってきます。
そんなわけで、2001年に刊行された京極夏彦氏の『ルー=ガルー 忌避すべき狼』も、こうした議論に巻き込まれた作品となりました。
その結果、白倉伸一郎氏にも、森博嗣氏の『黒猫の三角』ともども「ベダンチックで知的とみなされている小説家ですら、このようなものを書いてしまう」(『仮面ライダー龍騎 ファンタスティックコレクション』、朝日ソノラマ、p.54)と評されていますが…
まあ実際、答えを与えることには成功していないでしょう。
大きな原因は多分、主知主義にあるのでしょう。
「殺された人の関係者が悲しむから」(では身寄りのない人なら殺しても良いのか)、「社会を維持するため」(では社会のためなら殺しても良いか)、「殺人を認めたら自分も殺されるかも知れない」(じゃあ自分が殺されても構わないなら…)と、普通に挙げられる理由を論理的に考えていくと、普遍的には適用できないことは明らかなのですね。
『ルー=ガルー』の世界は人間同士の(リアルでの)コミュニケーションが希薄になった未来世界で、「道徳的な言葉」はすでに建前としても持ち出せなくなっている感があります。上記のような理由など、最初からその限界も分かっているように、口にされることもありません。
結局、「法律で決まっているから」としか言えないのですが、では法は絶対根拠なのか。そうではなく、少女達は法に反して敵と戦い、殺します。そして事態は、“超法規的に”処理されるのです。
それは、敵も法など捻じ曲げられる立場にいるからに他なりません(そうでなければ、警察に任せれば済むことです)。
殺すのは「悪いことだ」と信じたいけれど、誰もそれを語る言葉を持たない――そんな冷たく乾いた空気が作中には充満しています。
でもまあ、そうなってしまうんですね。
漫画版ではそうした問答色は薄れています。人間関係の希薄な世界を強調するためか、世界的な伝染病の流行があって接触が制限されたというSF設定も加味しつつ、「少女達の友情もの」(やや百合色あり)という印象を強めています。
とは言え、なぜ戦って人を殺したりするのかと言えば、やはり「自分と友達を守るため」なんですよね、多分――だからそれが善いとは、言えないにせよ。
そして続編の『インクブス×スクブス』ですが、もはや「なぜ」とは問わないものの、「人を殺すのは、いけないことですよね」という確認のフレーズは繰り返されます。
もはやその建前が通用しなくなっている現実が目の前にあるからこそ、確認しておきたいという作中人物の気持ちは、よく分かりますけれど。
以前の記事で触れた通り、漫画版からの影響あるいは逆輸入もやや感じられます。前作よりは明るい雰囲気もありますし。
そして…前作では(読者公募の設定に忠実に)鳩を伝書に使ったりした彼女達ですが、今回は最初の方から、来生律子が趣味でバイクの整備をしています。
作中世界ではもはやバイクなどというものは廃止され、走らせるのも禁止されているらしく、エンジンはないのですが…。もちろん、非常にレアな趣味です。
そして前作では「カメのカイジュー」(もちろんガメラのこと。漫画版ではモロに映像も出てきます)にこだわっていた天才少女・都築美緒は今回、「バッタの改造人間」がマイブームらしい。
そこまで言えば分かると思いますが、後半では当然バイクアクションをやります。
そんな感じです。
また漫画化してほしいですね。
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P.S. (先日の記事のコメントにつきまして)
非公開であることを考慮して内容に触れた返信はいたしませんが、好意的な評価をいただけて何よりです。
(芸術学4年T.Y.)
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968 : 名無しさん@涙目です。(石川県) : 2011/08/20(土) 23:54:59.99 ID:ThG9BAIH0
「なぜ、人を殺してはいけないか?」
この問いについて、
古来からたくさんの議論が交わされてきたが、
未だかつて客観的絶対的な答えが導き出されたことはない。
しかし、ひとつだけいえるのは、
もし、人間が「人を殺してはいけない」という
固定的なルール(社会の暗黙の了解)に従って殺さない、
もしくは、「自分が殺されたくないから」などの
功利的な理由から殺さないのだとしたら、
そこになんの命の尊厳も見出すことはできない、ということだ。
まったく皮肉な話だが、
「人なんか殺してもよい。そういう自由も許されている」
と本気で考えている人間が、
「だけど、『私』は、人を殺さない」と
「何の前提も強制もなく 決断 した」とき、
初めてそこに尊厳が生まれるのだ。