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「根拠のなさ」への自覚

11月8日の記事の続きのような形になりますが…
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うからには、「殺してはいけない(ことになっている)」ことは前提されています。そこで「殺せないことはない」と言ったところで、答えにはならないでしょう。「殺せないことはない」ものが、「殺してはいけない」ことになるのはなぜか、が問題なのですから(もちろん、「そのような問いの立て方が不適切である」というのなら、そうした指摘も重要なものですが)。
ただ、今回問題にしたいのはその点をあらゆる方面から追求することではありません。

もし、ある共同体におけるが根拠であるなら、法を与える共同体そのものは悪を犯すことはないことになります。
事実上は、あり得る話かも知れません。社会学者バウマンの言うように、ナチスドイツが戦争で負けていなければ、ホロコーストは「悪行」として裁かれることもなかった可能性は高いでしょう。裁かれていない大量虐殺は実際にあります。
しかし、それでも(処罰を行う手続きは別として)その行為が「悪い」と語ることは可能でしょう。
少なくとも権利上は、共同体も個人と同じく悪をなし得る、と言うべきではないでしょうか(バウマンもまた、共同体に道徳の根拠を求めるのではない「道徳の社会理論」の必要性を主張します)。

しかし、さらに考えるなら、たとえ(共同体に依存するのではない)普遍的道徳が存在しようと、その普遍的道徳に訴えて完全無欠の裁きを下すことのできる存在者は(この世には)いない以上、事実上はいてもいてなくても同じことだ、とも考えられます。
むしろ、「自分は普遍的正しさに基づいている」と主張する者ほど危険な者はありません。

つまり、一方にまったく個人的な利害があり(これは当然、互いに対立することもあります)、他方に普遍的道徳があるとしても、それだけでは「どうすべきか」の答えは得られないのです。
道徳は「“ある”と想定されざるを得ない」だけなら、学者の理論的興味にしか関わりません。
そこで「どうすべきか」を論ずる開かれた過程こそが「法」に関わる手続きであり、「政治」と呼ばれるものでしょう。

その話を追求するのはまたの機会としまして、こう考えると小説『ルー=ガルー』について、あることに気付きます。
『ルー=ガルー』も続編『インクブス×スクブス』も、終盤に黒幕が目的を語り出すと、これがもう理解も共感も不可能な代物です。「そんなことでこんな犯罪を…」とただ絶句するばかりです。
このシリーズには京極堂のような「犯人がなぜその行為に至ったのか、その物語を言葉で解き明かす者」がいないのが大きな原因でしょうが、これはまた、「自分の正しさを絶対的に信ずる者」の姿を描いているとも言えるでしょう。
相手がそうだから、少女達は殺すという暴力でもって立ち向かわざるを得ないのです――それは結局、利害の対立する者同士が戦うという戦争の論理に過ぎないのでしょうが……

自分の「正しくなさ」に対する自覚というのも重要なポイントで、京極夏彦氏の別の作品にも見出すことができます。

 木場は、予断は有効だと思っている。事件にも貌があり、その貌が見えれば似合わぬ化粧はすぐに見破れる。だが木場の場合、予断を導き出すのは歩き回って肌で感じた勘であり鼻で嗅いだ事件の臭いであって、理屈ではない。机上で捏ねくり回した理論から導き出されるのは予断というより仮の結論だ。
 そんなものを前提にして血の通った仕事は出来ない。斯くあるべきという大きな外枠――理論的仮説が先行してあり、それに事実を当て嵌めて、当て嵌まらぬ部分は小理屈をつけて解消し、仮説の整合性を立証する――そう云う手法は慥かに効率的だが、大きな誤謬を是正するために小さな矛盾を無視していくと云うやり方は木場の好むところではない。
 理論に基づく仮説も、勘に基づく予断も、大差ないと云えば大差ないし、寧ろ後者の方が理屈が通らぬ分立場は弱いと云える。しかし木場はその立場が弱いという部分にこそ固執している。木場にとて予断とは、云ってみれば虚勢のようなものなのだ。
 木場は警官の信念など虚勢程度で十分だと思う。(……)
 それに、背景の理屈が精緻であればある程、理論矛盾を起こした途端に操作は暗礁に乗り上げる。理屈を修正するにも一度構築してしまった原理原則は中中に変更が難しいらしく、否定するにしろ肯定するにしろ初めの理屈は最後まで尾を引く。高が予断ならばそんなことはなく、捜査の途中で幾らでも取り下げられる。刑事の仕事に堅牢な理は必要ない。捜査は捜査、歩く以外に道はない。
 (京極夏彦『絡新婦の理』、講談社ノベルス、1996、pp.281-282)


ミステリーにおいては、一般人や警察etc...がいかにミスリードされるかも重要なポイントですが、その間違いと正解の分かれ目が見事に描かれています。
特に『絡新婦の理』の場合、複数の事件がまさに蜘蛛の巣のような絡み合った複雑な事件ですが、個々の事件は結構シンプルだったりするだけに、なおさらです。
ここで木場が関わっている事件も、犯人は指名手配中の連続殺人鬼――つまり最初から分かっています。
ところが途中で、その手配中の犯人は現場に出入りしておらず、別人が犯人ではないかと考えられるようになります。
ここで二者択一の犯人を当てずっぽうで当てても駄目です。なぜそのようになったのか――一方が犯人であるとして、他方が疑われるような状況が生じたのはなぜか――を余すところなく説明しないものは解明の名に値しません。
そのためには、理屈を付けようと思えば何とでも言える、では困ります。他の可能性はきちんと否定せねばなりません。
しかし人間は、一度歩き出した方向をどこまでも進んでしまいがちで、自己正当化を始めるとなかなか抜け出せません。
自分の「根拠のなさ」を常に自覚し、細かい部分を積み上げられるかどうかが問われます。

「いずれにせよ自分は正しい」と思っている者は、きちんと根拠を積み上げようとも、それを丁寧に説明しようとも思わないでしょう。


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原書はこちら。

Modernity and the HolocaustModernity and the Holocaust
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                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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