オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
「自意識」の問題の射程
今までも散々引用してきた本ですが、前島賢氏の『セカイ系とは何か』から、いくつかまとめて引用してみましょう。
物語の視点は、どんどん登場人物の内面へと移り、「アダム」、「リリス」、「人類補完計画」など、それまで視聴者の興味を引く原動力となってきた謎への解答は、一切放棄される。そして、最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」は、
人々の失われたモノ
すなわち、心の補完は続いていた
だが、その全てを記すには、あまりにも時間が足りない
よって今は、碇シンジという名の少年
彼の心の補完について語ることにする
というテロップとともに始まり、主人公の少年・碇シンジが、体育館とおぼしき場所でパイプ椅子に座って「やっぱり僕はいらない子供なんだ。僕のことなんかどうでもいいんだ」と、延々、自意識の悩みを吐露し、あるいは「人から嫌われるのが怖いんでしょ。弱い自分を見るのが怖いんでしょ」と他のキャラクターから責められるなかで「僕はここにいたい」、「僕はここにいてもいいんだ」という結論に達し、青空のもと、他のキャラクターに「おめでとう」と祝福されて幕を閉じることになる。
(……)
「あまりにも時間が足りな」かった最終2話のリメイクとして作られた、完結編たる劇場版『EOE』もまた驚くべきことに、描かれるテーマはまったく同一のものだった。それどころか、さらに徹底されていた。碇シンジは、作中、ヒロインの裸を「オカズ」に自慰にふけり、ロボットアニメの主人公でありながら、一度としてロボットに乗って戦うことはなく、テレビ版最終話同様、他者への恐怖を語り続ける。
他者と共に生きていくことを選択したシンジがTV版最終回では「おめでとう」と祝福されて終わったのに対し、劇場版ではヒロイン・アスカに「キモチワルイ」と拒絶される違いはあれど、自意識に焦点を合わせたという点に変わりはない。
(……)
『エヴァ』終盤で描かれたのは、監督・庵野秀明の内面、自意識の悩みそのものだったように見える。言ってみれば『エヴァ』は、終盤及び劇場版で、唐突に「究極のオタク向けアニメ」から「オタクの文学」へと変化したのである。そこで展開されたのは、少年がロボットに乗って戦い成長するというオタクが見たかった物語ではなく、美少女でオナニーするオタク自身の姿であった。しかし、そのことで、『エヴァ』はオタクたちのアニメを超えて、社会現象とまで呼ばれるヒットを記録する。
(前島賢『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』、ソフトバンク新書、2010、pp.43-47)
セカイ系は、時にその定義はしばしば大きく変わったが、しかし「私」を巡る問題系であるという点は、変わらなかった。まるで、オタク文化という場所自体が思春期を迎えたかのように、自意識過剰な10代の少年のように、この「私」をめぐる問題が、95年からゼロ年代を通じて語られ続けた。
オタク文化に携わる者が、作り手が、受け手が、なぜそれを作るのか、それを受け取るのか、我々は何なのか?という自省を迫られるようになった時代だった。
(同書、pp.247-248)
実に微妙なズレにお気付きでしょうか。
「人から嫌われるのが怖い」「弱い自分を見るのが怖い」という「他者への恐怖」と、オタクとしての「なぜそれを作るのか、それを受け取るのか、我々は何なのか?」という問いとは、確かに同じ「自意識の悩み」「『私』を巡る問題系」という言葉で括ることができますが、いくぶん違いがあります。
端的に言ってしまえば、前者はオタクだけの問題ではありません。
オタクにとっても、「自意識の問題」は決して「オタクであることに関するもの」だけに限られるものではないでしょう。
前島氏が特に「自己言及性」を「セカイ系」の特徴と考え、その問題に多くのページを割くのは、後者――「オタクの、オタクであることに関する自意識」を特に問題と考えているからに他なりません。
『エヴァ』が実際に描いていたのはどちらだったのか――というのはいささか不毛な問いですが、おそらくは両者が交錯していたことでしょう。あるいは前島氏の記述を額面通りに読むなら、TVシリーズ最終2話と劇場版とで、この点に関してもすでに違いが生じていたのかも知れません。
前島氏は、セカイ系がすでに下火となったのは、「思春期は、いつかは終わってしまう」(同書、p.248)のと同様、自意識の問いそのものが下火となったからであると考え、その上で「そんな創作の過程で、必ずどこかから自意識の問いは生まれてくるはずである」「おそらくそのムーブメントは、セカイ系とは別の言葉で名指されることだろう」と「予言」しています(同書、p.249)。
その「予言」の内容については特に異論はありません。
しかし、果たして自意識の問いは「終わった」のでしょうか。ひょっとして、「オタクの、オタクであることに関する自意識」は自意識の一部でしかなく、「自意識全般の問題」に吸収されたという可能性はないでしょうか。
確かに、(たとえば、『涼宮ハルヒ』において、宇宙人や未来人や超能力者といった存在に逢うことを願っていたが、そんなものがいるはずはない、と散々語られるように)「自分たちの出会う不思議な登場人物や事態が、フィクショナルでチープなもの(ロボットアニメ、侵略SF、変身ヒーローもの、本格ミステリ、そしてセカイ系)でしかないと作中で指摘し続ける」という自己言及性を備えつつ、「それらをちゃかしたり笑ったりするのではなく、きわめて深刻な自意識の悩みという主題を展開する」(同書、p.164)というスタイルは、一時期ほど有力ではないようです。
少なくともライトノベルでは、そういう自己言及はもっぱらパロディギャグとして生き延びているらしい、と(私が確認できるかなり狭い範囲では)思われました。しかし…
『らき☆すた』のヒットをきっかけとして、このような傾向の作品は、ライトノベルにも普及し、生徒会の一室で美少女キャラクターがひたすらにおしゃべりに興じるだけの『生徒会の一存』がアニメ化。『ラノベ部』、『僕は友達が少ない』など同様の傾向の作品が相次いでヒットを飛ばし続けている。
これらの作品は、男性キャラクターがほとんど登場しない点も特徴で、セカイ系に顕著であった少年の自意識の問題系については、ほぼ排除されていると言ってもいい。
(同書、p.234-235)
『僕は友達が少ない』における「友達とは何か」という問題を、私はことあるごとに取り上げてきました。それははたして「少年の自意識の問題系」と無縁なのか、どうか。
(芸術学4年T.Y.)
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