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物語を「終わらせる」こと

昨日の続きですが、まずは『ユリイカ』の『魔法少女まどか☆マギカ』を特集した臨時増刊号に掲載された精神科医・斎藤環氏の論文「まどか☆マギカ、あるいはキャラの倫理」を取り上げてみましょう。

この論文の前半は、このブログでも以前取り上げた、氏の「キャラ」や「ファリック・ガール」に関する論がメインです。
新しいポイントは後半部ですが、その要点は以下のようにまとめられるでしょう。

1. 「どんな願いでも一つだけ叶えられる」という設定は、例えば「願いの数を増やして欲しい」といった「願い事についての願い」をすれば前提条件が崩れてしまうという「願い事のパラドックス」を含む。まどかの「全ての魔女を生まれる前に消し去りたい」という願いは、この種の「願い事についての願い」に他ならない。
2. 論理学的に、他のことについての願いは「オブジェクトレベル」、願い事についての願いは「メタレベル」にあるとすれば、オブジェクトレベルで解決不可能な問題をメタレベルに上がることで解決するのは「夢オチ」と呼ばれる禁じ手である。
3. しかし『まどか☆マギカ』が「夢オチ」同様の反則的な印象を抱かせないとすれば、それは代償として、まどかという一人の「キャラ」が消滅したからである。このようなキャラと世界観との交換関係こそ「キャラの倫理」である。

 (……)『まどか☆マギカ』のもうひとつの画期性は、キャラと世界設定との間に、なんらかの等価交換的な原理が存在することを示唆し得た点にある。
 (斎藤環「まどか☆マギカ、あるいはキャラの倫理」『ユリイカ2011年11月臨時増刊号 総特集=魔法少女まどか☆マギカ 魔法少女に花束を』、青土社、2011、p.49)


非常に興味深いし、まだここからは汲むべき多くのことがあると感じられる論考ですが、しかし、「夢オチ」の反則感を回避したのは「キャラの消滅という代償によって」というのは十分な説明なのか、十分に挙証されているのか、気にならないではありません。
そもそも、斎藤氏の言う「“キャラ”は基本的に不死である」(同所)というのは、物語中で死なないなどという意味ではありません(『まどか☆マギカ』の作中では、たくさんの登場人物が死んでいます)。「キャラ」は――たとえば二次創作などで――複製可能な存在であるという『キャラクター精神分析』のテーゼを考えるなら、まどかはある意味で、二次創作等々で「生き続けている」とも言えるのではないでしょうか。
(メタレベルに上昇して問題を解決した後でもキャラが同一性を保っていることこそ「夢オチ」の問題点であるという主張は分かりますが、そこでの「キャラの同一性」は、『キャラクター精神分析』において主張されたものと、微妙にズレてはいないでしょうか)

試しに問うてみてもよいでしょう。このような論点からは、昨日語った『仮面ライダー龍騎』との違いは、どのように語られるのか、と。
実写である『龍騎』の登場人物は純粋に「キャラ」ではない、といった主張は可能かも知れませんが、それが本質なのか、と言われると、首を傾げます。

『龍騎』において、新たな世界を「絵」のように描いた神崎兄妹はまさしく「世界の外」すなわち「メタレベル」へ移った、そしてそのことは作中の論理にきちんと接合されてはいない、とは言えるでしょう(神崎兄妹を「システムの擬人化」と捉える宇野常寛氏の批評も、「システム」は世界内の存在者ではないと考えれば、ほぼ同じことです)。この「接合」つまり「いかにして“新しい世界を生む”ことが可能になるのか」こそが「完成度」の問題です。
ただ、『龍騎』に好意的に捉えるなら、それもまた必要なことだった、と言えるかも知れません。
プロデューサー・白倉伸一郎氏がこの時期に言っているのは、「『正しいことは正しい』と信じること」「これが正義だ」と掲げることは「正しくない」ということです(決して「どこにも正義はない」ということではありません)。それゆえ、おそらくは正義を可能にする側にあった、「聖人」たる優依のもたらす「恩寵」は、もはや物語の中で「これだ」と掲げられるのではなく、物語の「外」に追いやられるしかなかったのではないか、と考えられるのです。

さて、白倉氏が「善-悪」「光-闇」「秩序-混沌」といった「二分法」と並んで、「わたしたち」と「あいつら」を区切る(暴力的な)装置だと考えるのが「物語化」です。

 たとえば、

「溺れている子供を見かけた人が川に飛び込み、自らが溺死した」

 といった報道に、私たちは感動する。
 この事件を報道したり、報道を受けて感動したりすることが、間違っているはずがない。ないけれども、私たちが、この“物語”を楽しんでいることも事実だ。この人が、ロープを投げて子供を助けたり、消防隊に電話しただけだったらニュースバリューはないし、私たちも感動しない。
 私たちが感動しているのは「子供を助けた」という行為にではなく、死んだことで、その人の人生が物語として完結したことなのではないだろうか。
 私たちは、この報道を子供たちに読み聞かせ「お前も、溺れる子供を見かけたら、身の危険を顧みず川に飛び込み、溺死しなさい」とは教えない。何の教訓も導き出さない、単なる感動物語として、子供たちに読み聞かせる。
 そしてそれは、他人の現実を物語化して受容する思考回路を、子供たちに植えつけることでもある。
 (……)
 〔私たちが「ドナドナ」の子牛のような例を取り上げるのは〕子牛を可哀想に思う「おれたち」と、思わない「あいつら」とに世界を二分するためだ。
 (白倉伸一郎「二元論の崩壊」『仮面ライダー龍騎 ファンタスティックコレクション』、朝日ソノラマ、2003、p.53)


そして白倉氏は、物語の問題点として「物語は終わる」ことと「物語は現実を侵食する」ことの二点を挙げ、「この特性そのものが、私たちの武器になりうる」と述べます。

 (……)テレビは、本よりもはるかにナマ物であり、一過性のものだ。テレビ番組の視聴者は「終わる」「終わった」という意識が、書物よりも強い。「最終回」は特別視され、「最終回特集」がバラエティ番組やムック本のネタになりえたりする。
 視聴者自身は、それが何を意味するか気づいていないが、その習性を自覚してもらうことができれば、視聴者に「俺たち」自身を相対化してとらえる目線を有してもらうことができるかも知れない。
 (同書、p.55)


物語は完結することで「俺たちの物語」となり、俺たち」と「あいつら」を区分するのに用いられる。それに対抗するために、あえて「物語は終わる」ことを利用する。
そのためには、「物語は終わる」ことを自覚させつつ、決して「俺たちの物語」に回収されないものを指し示す――という二重の課題が求められるでしょう。

私はこういう時、甚だ察しが悪いので、では結局『龍騎』がいかにしてこの課題に挑んだのか、読み解ける自信はあまりありませんが、いい加減さは覚悟の上で考えてみましょう。
『龍騎』におけるライダーバトルは、優依の20歳の誕生日という明確な期限がありました。「たまたまその時期にラスボスと決戦する」からではなく、「終わるべくして終わる」のです。そしてモンスターもライダーも、それらの存在した記憶さえない世界が到来するわけですから、「続き」もあり得ません。
こうして物語は閉じて、物語ならざる日常が始まり、それをもたらしてくれた優依の「善」――「恩寵」は、もはや「物語の内に回収されないもの」という否定形で示されるよりほかない、ということです。

『まどか☆マギカ』も「ワルプルギスの夜の襲来」までの1ヶ月という形で明確に区切られた期限をもってこれ以上ないほどに「完結した」物語です(※)。しかし、その構造は対照的です。
第10話におけるほむらのループでは、複数の世界がメタレベルに並置され、ほむらと運命の「メタレベルにおける戦い」が展開されているように見えながら、「並行世界の因果の糸」をほむらが一つに紡ぎ合わせたのをまどかが受け取るという形で、(メタレベルにあって複数の世界を貫いているように思われた)ほむらの「一つの生」が再び「世界の内」に回収される――『まどか☆マギカ』はそんな構造になっていると、私は主張してきました(参照→ 1 2)。
ここでは、何も「世界の外」に取り残さず、そして「魔獣」が現れ、魔法少女が運命を納得づくで戦っている世界が到来することで、ようやく「敵との戦いの物語」が始まるのです。

鏡像のように対照的な形でそれぞれに「物語を閉じた」両作品、一方が他方を踏まえているというのなら、なるほどと思います。

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※ 映画化されるようですが、どういう扱いになるのか予想できません。あるとしたらスピンオフかパラレル的なものしか考えられませんが…

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                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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