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人に取り上げられる立場になったりしつつ

いきなりですが、ゲッパ(浦橋月葉)氏という方のブログ「人の身の限りを思ひ日々綴る」で、私がブログ上に書いたことが取り上げられていました。

 「倫理学者は不道徳」とする『山中芸大日記』の見解について(1)

から11回ほど続きます。
ご覧になれば分かるように、発端は私の「あらためて『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』」の記事ですね。
まずは、このように取り上げていただき有難いと思います。
私が明言していなかった概念の区別を見出していたりして、興味深い記事になっていると思います。

ゲッパ氏の論をこちらで改めてまとめて批評を加えるといったことをする予定は、こちらには今のところありません。
それゆえ、そもそもの問題意識の違いがあった場合、それを十分に捉えられている確証はありませんが、反論というほどの反論が必要だとも感じていません。
というわけで、応答になるかどうか分かりませんが、いくつかの点で改めてこちらの考えを述べさせていただきたいと思います。

1. 倫理学に「人を道徳的にする」という役割を期待するかと言うと、私はほとんどしていません。
私が哲学的薫陶を受けた相手がベルクソンであるということの影響が大きいのですが、それが「善い(と言われる)」ことと、「人間をそのように行為するよう駆り立てる」こととは別のことである、と基本的には思っているからです。
言ってしまえば、理屈で「これはこのようなわけで“善い”のだ」と言われて従う人がいるならば、それは「そのことに従いたい」あるいは「理屈で言われたことに従いたい」と思わせる感情的な理由が根底にあるからだと思われます。
逆に、それが「善い」と言われるかどうかは別にして、ある考え方が人に対して力を発揮する方法を探究する学問は、たしかに人を従わせる役にも立つかも知れませんが、それはもはや「倫理学」の名で呼ばれるものではないでしょう。

私は倫理学に学問的興味は認めますが、それと実践的に「善き人になる」のに役に立つのとは、話が別です。
そもそも、あまり学問に「それが何の役に立ちますか」と聞いて欲しくないのです。大半の学問は、今研究している時点では何の役にも立ちません。

2. もっとも私の記事には、たしかに倫理学そのものを論難するような調子が見られたかも知れません。
ただし、発端となった記事は、まず「このような“本来問うべきではないこと”が問われてしまう。現代はモラルの崩壊した時代だ」という嘆きが事実存在することを踏まえての話のつもりでした。
そして、それに部分的に同意すると同時に、自分だけは議論の外に立って「こんな議論をすることはけしからん」と言うことの不可能性をも主張していました。そういうことを言い出した時点で、自分も議論に巻き込まれてしまうのです。だから「そっくりそのまま自分に跳ね返ってきます」と言いました。

ですから、ゲッパ氏の思考実験でのように「倫理学は多少なりとも道徳に従う人間を増やすが、メタ倫理学は逆の効果を持つ」というのが事実だとしても、「倫理学は良いが、メタ倫理学はやらない」というところに留まっていることは不可能だと、私は考えます(「あそこでやめておけば良かったのに」と言えるのは、もっと先まで言ってしまった者だけです)。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うて答えようとし出せば、「その答えには根拠がないのではないか」という問いかけもいずれ出てきてしまうでしょう。

3. ただし、その同意も「部分的に同意」に留まります。
そもそも、ある面で「道徳が機能している」ことが他の面でも良いことかと言うと、一概にそうとは言えないのです。
「善いことを推奨する」ことが「悪人(と見なされた者)を攻撃する」ことを含意し、ひいては「私たちみんなのため」を謳う道徳が「(“私たち”に含まれない)敵の排除」に結び付く例は多いのです。
これは必ずしも、「あちらの道徳とこちらの道徳は異なる」といった相対主義を持ち込むわけでありません。しかし、両者がほとんど同じ道徳を信奉しているようでいて敵対するということもあるのです。

「地獄への道は善意で舗装されている」(ダンテ)

つまり、「道徳が機能しているかどうか」だけでなく、「それはどのような道徳か」というのも、問題なのです。
その点で、「あらためて『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』」はまだ「道徳が機能しているのは善いことだ」という範囲内での話しでしたが、「「根拠のなさ」への自覚」はその限りではなかったわけで、話の水準がいつの間にか違っていたかも知れません。

4. たしかに私は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えようとしても、大概の答えは否定され得ることを強調しました。
しかし(これは今までの記事で言わなかったことだと思いますが)、その問いがあまりにも一般化されているから、という面もないでしょうか。一般原則は適用しようとすると必ず例外あり、です。

しかも、仮にそうした一般原則が誰もに認められていたとしても、実際に個々のケースでは、やはり判断が分かれるものです。

 殺人犯を死刑にすることは善いのか?
 「嘘を吐いてはいけない」とすると、殺人犯に追われている人を匿う時にはどうするのか? 正直に「私が匿っています」と言うのか? (※)

そこで「これは善いのか?」「どうすれば善いのか?」というのは、問い質されなければならないことでしょう。
道徳的善さというものが求め得るならば、それは一般原則として一度に与えられるものではなく、そのつど掴み取らねばならないものだと思います。
以下の記述で言わんとしたのも、そういうことです。

そこで「どうすべきか」を論ずる開かれた過程こそが「法」に関わる手続きであり、「政治」と呼ばれるものでしょう。


ここでの「問い質し方」、すなわち「法」と「政治」に関わるものも「倫理」と連続したものと考え得るならば、倫理にも実践的に役に立つことを期待できるかも知れません。

ただし、「理性的な対話でよって合意を得る」という討議倫理の考え方に関しては、私も(詳しくはありませんが)ゲッパ氏と同様、必ずしも同意しません。
ただそれは、「法」と「政治」の領域を合理的なものの中に閉じ込めることの方が不当である、という意味でです。
(この辺に関しては、まだ適切に語るやり方を十分に見出していない気がするので、いつ話ができるか分かりませんが)

※ マイケル・サンデルの講義で登場した有名な例ですね。

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                           (芸術学4年T.Y.)

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コメント

ご紹介ありがとうございます

僕の記事を紹介して頂き、ありがとうございます。またかなり詳細な応答を返していただいたこともありがたく思っております。現在のところ僕の周囲には学問的議論を交わせる相手がいないもので、このように応答を頂けること自体がうれしくてなりません。

貴方に応答記事を書いて頂いたことを僕のブログでも改めて紹介させて頂くと共に、若干の再返答をさせていただくつもりでいます。ただ、僕のブログでは現在他の記事を連載中なので、それが終わった後になることを了解して頂きたいと思います。その間に貴方の応答に関して熟考しておきたいと思います。

今日は、簡単な挨拶で失礼します。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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