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自由と科学

私の先生(我が師と書きたいところですが、弟子を名乗るのは僭越なので、やめておきます)は、「自由の根底には非自由がある」と主張しておられます。
つまり、「自由」という事実は確かに「ある」けれど、それはつねに「非自由」を前提とせざるを得ない、ということです。

私もそこには大きな影響を受けているのですが(「運命に内在する――受動的なヒーロー」などの記事も、その方向性で書かれたものです)、しかし、「自由という事実が確かに“ある”」というのが、一般にはそう自明のことでもないのかも知れないな、と、ふと思いました。
もちろん、先生は「自由」に関する哲学的議論に疎い人に向けて通俗的解説書を書く、などということには一切興味のない御方なので、一般の人に前提が通じなくとも、まあ別に問題ないと言えばないのですが…

ただ、「当たり前のことを難しく言うのが哲学だ」としばしば言われますし、実際そういう面は大きいのですが、この場合には「当たり前でないことを前提している」ように思われるかもな、と。

実際、現代科学の立場から自由を否定する、という議論があるのですね。

 あなたには自由意志がないと言われたら、たいていの人はむきになって、そんなことはないと反論するはずだ。「人間は、宇宙の中で無力な存在だと見られないよう、自分を擁護する」と、アルバート・アインシュタインは一九三一年に記している。アインシュタインの専門分野である天文学と宇宙論が、先陣を切って人間を宇宙の中心から締め出し、さらにほかの科学分野もそれに続いたので、人間を特別なものたらしめているのは、自由意志くらいになってしまった。ところが、これすらもまもなく失われてしまう可能性がある。
 一七八八年、哲学者イマヌエル・カントは、自由意志の問題を神や魂の不滅と同等の地位に置いた。この三つだけが、人間の知性の力を超えたものだというのだ。しかし、カントは間違っていたかも知れない。神経科学者が少しずつ自由意志の秘密を明らかにしつつあるからだ。
 (マイケル・ブルックス『まだ科学で解けない13の謎』楡井浩一訳、草思社、2010、pp.244-245)


まず確認しておきましょう。1788年はカントの『実践理性批判』が出版された年ですが、自由の証明に関する問題はその前の『純粋理性批判』に遡ります。
そして、カントは「自由があるかないか、知性には分からない」などとは言っていません。
まったく逆です。純粋理性は「自由は存在しない」ことは証明できるが、自由の存在は証明できない、しかし自由が存在することはそれと矛盾しない、と言っているのです。

なぜかというと、まず「自由」とは「自ラニ由ル」、つまり他の何者でもなく、それ自身によって決定する、ということです(それゆえ、自由という訳語は「解放された状態」を意味するラテン語の libertas の意味をよく表しています)。したがって、外部に他の原因を持つものは、自由ではありません。
しかし、純粋理性はまさに因果関係を持って物事を認識するので、何事にも必ず原因を見付け、「自由ではない」ことのみを証明できるのです。

 これにたいしてわたしが宇宙論的な意味で自由と言うとき、それはみずからの力で新しい状態を引き起こすことのできる能力を意味している。だからこの自由の原因の原因性は、自然法則にしたがって、時間においてそれを規定するような別の原因に服するものではない。この意味では自由は純粋に超越論的な理念であり、次の二つの特徴がある。第一に、この自由は経験から〈借りた〉ものをもっていない。第二に、自由[な行為]の対象は、経験のうちで規定されて与えられることができない。[というのは、それが経験のうちで規定されるものだとしたら、自然の不変的な法則にしたがうはずであるが、その自然の]普遍的な法則では、生起したすべてのものには原因があること、そしてそれ自身において生起したか発生した原因の原因性にも、やはり別の原因が存在しなければならないことが定められているからである。(……)
 これに反して現象が実際の〈ありのまま〉のものだとすると、すなわち現象は物自体ではなく、たんに経験的な法則によって結び付けられたものとして、心に思い描かれたものにすぎないとすると、現象が起こるためには現象とは別の根拠が必要になる。[現象とは異なるものだから、こうした根拠は感性的な性格のものではなく、叡智的な性格のものでなければならないのであり、]このような叡智的な性格の原因は、その原因性が現象によって規定されないものであるはずである。ただしこの叡智的な性格の原因から生まれる結果そのものは現象として現れるのであり、他の現象によって規定されることになる。こうしてこの叡智的な原因もその原因性も、[現象の]系列の外にあることになる。しかし結果[として発生した出来事]は、経験的な条件の系列にある。だからその結果は、叡智的な原因という観点から眺めたときには自由なものとみなされるが、現象という観点から眺めるときには、自然の必然性にしたがったさまざまな現象の帰結とみなされるのである。
 (イマヌエル・カント『純粋理性批判』5巻、中山元訳、光文社、2011、p.235, pp.241-242)


つまり、自由があったとしても、純粋理性はそれを必然的な因果性によって生じたものとして認識することができ、そこに矛盾は生じないのです。

さて、純粋理性は認識の能力であり、カントが「認識」と言う時にモデルとしているのは古典物理学と幾何学、つまり今で言ういわゆる「科学的認識」です。
カントはそこにおいては、自由が存在しないことだけが証明できると言いました。
そして今、神経科学の成果が「自由が存在しない」ことを証明した、と言っています。

たしかに科学には大きな進展がありましたが、こと自由の問題に関する限り、何が進歩したというのでしょうか。

『まだ科学で解けない13の謎』で紹介されている科学の成果はいずれも面白く、またサイエンスライターがカントの議論に通じていないことは仕方ないと言えば仕方ないのですし、まして自由の存在を示す方のカントの議論が成功しているかというと、話は全く別です(むしろ、成功していないというのが定説でしょう)。
しかし、この点に関して科学の成果をもって「我々はカントより先に進んだ」と主張するのであれば、それは誤解に基づいていると言わざるを得ません。

(続くかも知れません)


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コメント

No title

ガチガチのスピノザファンの決定論者です。

「人間に自由がある」にもかかわらず「人間の行動は因果律に支配されている」ように見えることと、

「人間の行動は因果律に支配されている」にもかかわらず「人間に自由がある」ように感じられることのどちらが正しいかは、

人間が考えて決定できる問題ではないように思えます。

ウィトゲンシュタイン的にいえば、「語るべき」問題ではなく、「示されている」ものではないかと。

いろいろと論争を聞いていると、わたしにはどちらかといえば決定論のほうに分があるように思えるのは確かですが、

たかだか五千年の歴史で突き止められるわけがないじゃないか、といいたくもなります。

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その定義の前提は何か

前回の続きです 実は一口に「自由」と言っても、哲学史を繙けば実に様々な角度から語られうるものです。 前回触れたカントの考えにおいては、因果的決定論と自由が対立していたわけですが、自由に関する論点...
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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
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