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自由のある水準

どこから続けたものかと思っていましたが、まずは前回記事へのポール・ブリッツ氏のコメントに少しだけお答えしておきましょう。

たしかに「他の何物によるのでもなく、自分自身で」ということには、一切の外的な理由があってはならない、という強い意味合いが感じられたかも知れません。
しかし、この辺りで私の考えを言っておけば、私は自由というものがあるとして、そのような特殊な条件でしか発露しないものとは考えていません。
結局、ここでの自由は「“私”の自己決定」ということですが、しかし、それは「私」自身に内的な理由があることも、「私」が外的な影響を蒙っていることも排斥しない――する必要はない――と考えるのです。
理由は探せば探すことができます。
しかし、際限なく続く非人称な因果の連鎖の中の一部分ではなく、「一つの固有の存在」として「私」というものがあり、その「私」は「私の行為」の原因と見なされる――自由というものを求めるとすれば、そのような、いわば心理的な事実の内にである、ということです。

 ルヌヴィエ氏はすでに、反射運動に比せられる意志的行為について語り、彼は自由を危機〔発作〕の瞬間に制限した。しかし彼は、われわれの自由な活動の過程はいわば我々の知らぬ間に、持続のあらゆる瞬間において、意識の昏い深みにおいて連続しており、持続の感情そのものがそこから来るのであり、そこで我々の自我が進化するこの異質的で不鮮明な持続なしには精神的危機もないだろう、ということには注目しなかったように思われる。
 (アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものついての試論』)


しかし、そのような心理的な事実がそっくりそのまま錯覚なのではないか、という議論があるわけです。
私は決して、そうした議論に対し広範に答えようとしてきたわけではありませんし、しばらくその予定もありませんが、少なくとも、その種の議論のあるものは「私」の範囲を(たとえば「意識的な決断」と)狭く限定してしまっているのではないか、と問いました。前回の話はそういうことに留まります。

そもそも、科学というものは主観を排して、客観視点での記述を行うことを旨とします。つまり「私」というものは最初から除外されているわけでして、前提からして排されているものが見付からないことに何か不思議があろうか、と思います。

もう少し進めて――錯覚というのは、何を意味しているのでしょうか。

たとえば、自然界に「一」はありません。
これはただ、「一」というものはなく、「一個のもの」があるだけだ、という意味に留まりません。「一個のもの」も見付かりません。
たとえば、「このリンゴ」と「あのリンゴ」はよく見れば様々な違いがあるのに、何が同じく「一個」なのでしょうか。さらに、リンゴは多数の細胞から成り立っており、その細胞はまた分子から成り立っている…と言うこともできますし、他方で、リンゴも外界と相互作用しており、周囲と連続しているのだから、厳密な意味では「一つの単位」として切り離すことはできない、とも言えます。
ここから、数というのは我々の主観に依存した、便宜的な操作である、というのは正しいのですが、しかし科学が「一」を見付けることができないから数を数えるのはやめよう、という主張はありません。

「私」という「一つのもの」がある、というのもそれと同じく、本気で否定することは狂気を意味する、前提せざるを得ない事柄でしょう。自分を「一人」と数えることができない精神に、まともな思考が可能でしょうか。

第一、「私」が「私の行為」の原因ではないのなら、「この文章」の「作者」を主張することもできなくなります。自由を否定する論文に署名がしてあるのはこれいかに――というのは、いささか揚げ足取りかも知れませんが。

それでも、誰しも疑い得ないものであっても、科学の視点から見付からないものは「錯覚」と呼ぶのだ、という人に対しては、あえて反論はしません。

さて、上で「心理的な事実」と言いましたけれど、これは心理的なレベルでの実在と考えるか、「そう見なされざるを得ない」という見なし事実と考えるかで、また少し意味合いが違ってきます。後者はより社会的な水準と言えるかも知れません。
で、「自由意志の否定」は、この社会的な水準において問題になる、と言われます。

 今、脳スキャンの技術はきわめて高度になってきている。(……)もし、衝動的行動の回路が生まれつき備わっている人々が存在することを突き止められる段階――そこへの歩みはもう始まっている――まで来たら、裁判で弁護材料として利用されるのも時間の問題だろう。神経科学者が法廷で、脳の回路の接続についてこの人の責任を問うことはできません、と証言する日が近づいているのだ。
 (マイケル・ブルックス『まだ科学で解けない13の謎』楡井浩一訳、草思社、2010、p.257)


「精神鑑定」を巡る現在の状況を見ていれば、こうした状況は容易に想像できますが、しかし、ここまでの論旨から言えば、「科学的に“彼は自由ではなかった”ことが証明されたから、責任を問うべきではない」と主張するのは、「科学的に“一”は存在しないことが証明されたから、数を数えるのはやめよう」と言うのと同じ類の濫用です。
脳に「衝動的行動の回路」があろうが何があろうが、そこから、それを反社会的行為に繋がらないようにして生きることは決してできない、ということまで証明されるわけではありません。

この手の濫用を制止する必要はあるでしょうが、科学の成果は必然的にその手の濫用に直結する、と考えるのは、法に対しても哲学に対しても科学に対しても失礼極まりない、と申し上げておきます。


意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)
(2002/06)
アンリ ベルクソン

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追記:もちろん、自由に対するアプローチは他にもあって、「見なし事実」に留まるのではなく、より科学に近い水準で自由の存在を証明できると考えるもの、もっと壮大な形而上学的アプローチなど、様々です。
                           (芸術学4年T.Y.)

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コメント

No title

失礼かとは思いますが、わたしがいっていないことまで批判の対象とされているかと。

わたしは、「決定論に基づいているから人間は社会的責任を負わない」とはひとこともいっておりません。

決定論下の社会においても、現在の社会と同じように、人は人に好意を抱いたり嫌悪感を抱いたりすることでしょう。法を犯せば処罰されますし、素晴らしい行為をすれば称賛されます。

人間はそうなるように進化してきたからです。たとえば、わたしにとって不当と思われるような理由であなたがわたしを叩いたとしたら、その場の状況や、心理的な状況により、わたしは必然的に怒ってあなたを叩くと思われます。もちろん、これは心理的状況や、その場の物理的な状況、そういったパラメータの変動によって結果も違ってきます。

そうした無数の「原因→結果」の連鎖の中で、人間は進化し文明を作り、法を作り社会的規範を作ってきたから、現在の地球の状況という「結果」が出てきたわけです。

わたしがコメントに署名したのも、あなたの論という「刺激」があって、それにわたしの受けてきた教育や現在置かれている状況などが作用し、「コメントを書く」という結果がでてきて、そのコメントに署名することが、わたしの現在置かれている状況で、わたしが必然的に行う行為だから、ということにすぎません。もしわたしがコメントに署名をしなかったら(ということ自体考えてもナンセンスですが)、それは現在とはわたしを包む状況が違っていたから、ということになるかと思います。例えば昨日食べた夕食がまずかったから、とか、テレビでかかっていた番組が気に食わなかった、だとか、そういったものかもしれません。しかし、カオス理論でもわかるように、それらすべての因果関係を明らかにするのは、人間の限られた知性や情報処理能力では不可能です。

それでも、先のコメントで述べたような、処理不能な矛盾を引き起こす「自由意志」の存在を仮構するよりは、それ抜きで矛盾なく説明できる決定論のほうをわたしは支持する、というだけのことであります。

むろん、人間は自分に自由意志があると思って常日頃生活しています。それはそれでいいのです。しかし、常日頃生活している中で感じている常識が、そのまま真理であるいわれもないのです。スピノザではないですが、「われわれの目には銅貨ほどの大きさほどしかないように見える太陽も、理性ある人間ははるかかなたの巨大なものであることを知っている」のであります。

Re: No title

ああ、申し訳ありません。
貴方のコメントに対する応答は、せいぜい最初のベルクソンからの引用部辺りまで、というつもりでした。
社会的責任に関する箇所は、あくまでブルックスの著作からの引用の方を標的としておりました。実際、分かりにくかったと思うので、お詫びしておきます。

> むろん、人間は自分に自由意志があると思って常日頃生活しています。それはそれでいいのです。しかし、常日頃生活している中で感じている常識が、そのまま真理であるいわれもないのです。

仰る通りですが、この場合には、どこまでを「真理」とするかの問題がまずあろうかと思います。
科学的真理のみを絶対として、不適切な領域にまで濫用せんとする向きがあるので、特にブルックスの著作を取り上げて、それがなぜ不適切かを言うのがここ3回ほどの趣旨でしたが、では科学的真理の適用されない領域(この場合は自由の存在)がそれとは別個の「真理」と呼ばれうるかは、実際、また別の問題でしょう。

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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