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「父」というもの

卒論の仏文レジュメですが、こちらで十分に仕上げてからでないとチェックすらしていただけない雰囲気です。
文法的な不備となると、名詞の性数や動詞の活用のような明らかなものはともかく、「ここはこの表現でいいのか?」というのを自力で何とかするのはなかなか困難な仕事です。しかし、今後も欧文で書いていくためにはやらねばなりません。

前回述べたように、チェックするために印刷する必要があるとなると、デジタル化で紙が駆逐されることはまだ当分なさそうですね(むしろ、何回も印刷し直すので紙の消費量が増えたというのもよく聞く話です)。
読む場合にしても、最新の電子書籍に使われているeペーパーがどんなものが知りませんが、少なくとも、

・紙の書籍は一度に100ページでも500ページでもめくることができる。
・紙の書籍は書き込みが自由にできる。

この2点が電子書籍でも可能にならない限り、まだまだ紙は重要でしょう。
論文や学術書は頻繁に前に戻って読み返したり、アンダーラインを引いたりするものであるだけに、電子書籍の状態では不便で、印刷して読んでいる、というのは多くの人の証言するところです。

 ~~~

今日、明日と大学入試センター試験ですね。
以前はもう一週間くらい遅かった気がしますが…
『仮面ライダー』の最終回がセンター試験に重なることが多かったのですが(私が現役高校生だった2001年の『クウガ』も、再受験となった2008年の『電王』も)、『ディケイド』でライダーの終了時期が半年ズレてからそれも適用できなくなりました。
『スイートプリキュア』はそろそろ最終回のようですが。

(追記:何となく「次回で最終回」のような気がしていましたが、まだ後2回続くのだったようです。新番組は2月5日から)

そんなカレンダーで生きています。

 ~~~

最近本が増えすぎて、どの本がどこに行ったか分からなくなることが増えています。
どうしても必要な資料は分かるところに置いてあることが多いのですが…
大規模な模様替えが必要になりそうですが、それよりも大学院に進学したら引っ越すつもりでいるのであまり進まず…いや、先のことはどうなるか分かったものではありませんが。

さて、何回か触れてきた宇野常寛氏の『リトル・ピープルの時代』では、村上春樹の「母性というのは、もう少し情念的な束縛だけど、父性というのは制度的な束縛であるわけです」という発言を引きつつ、今まで主人公が「父となること」を避けてきた春樹作品ですが、『1Q84』において主人公の天吾が父となったのは「まさに決定的な展開」としています(p.130)。
父というのが「制度的な」もの、つまり「フィクション」であるからこそ、「父というフィクション」の“究極の形”を求めた古代思想として「グノーシス主義」があった……というのが、(これも以前に触れた)以下の本の主張なのですが…

グノーシス主義の思想―“父”というフィクショングノーシス主義の思想―“父”というフィクション
(2009/11)
大田 俊寛

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引用しようかと思ったら見付かりませんでした。

まあ引用は諦めて話を続けると、母親にとって「お腹を痛めて子を産んだ」のは確実な事実ですが、父と子の関係は制度的な見なしである、ということです。
特に、鳥は夫婦揃って子育てをするものが多いですが、哺乳類において子どもに授乳できるのは母親だけである以上、生物学的には父親と母親が子どもに対する関係において等価であることはあり得ません(ただし、このことは人間社会においていかにある「べきか」という主張を導くものではありませんので、あしからず)。

とは言え、哺乳類のオスも、自分の子どもは守り、自分以外のオスの子どもは殺したりするものがいてるし、やはり親子関係を認知しているのではないか、と言われれば、そういう面もあります。ただおそらく、それは「メスとテリトリー込みで」なのでしょう。つまり、ここにはすでに社会性が登場している、ということです。

このことを踏まえれば理解されるでしょうが、宇野氏は、「リトル・ピープルの時代」とは、私たちの誰もが(制度的な意味での)「父」である時代、と捉え、またその点に対する対応に村上春樹の限界をも見て取ります。

「父」になることはもはや達成ではない。私たちは否応なく「父」にされてしまうのであり、あとはこの不可避の条件にかに対応するか、という問題だけが残されている。父性の回復は、すでに自動的に達成されたものであり、それはもはや想像力の仕事ではない。よって、「父」になることをロマンチックな自己実現として描いてしまったところに、村上春樹の躓きは存在する。
 (宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎、2011、pp.137-138)


春樹論については今の私にはコメントできませんが。

ふと思い出すのは、グノーシスだけでなくキリスト教においては神は「父」であるわけでして、西洋思想における「父」のモデルはやはり「私と、その上にある父」というのは一般的ですね。
それに対して、「私」が「父となること」を自らの哲学のキーワードとした哲学者にレヴィナスがいます。「女性的なもの」との「エロス的関係」から「子を持つこと」へと繋がるわけですが、(当然のように)「私」が「男である」ことを前提しているという批判を受けました(レヴィナスの「女性的なもの」「エロス」については、「失われたアンドロギュノス(両性具有)」にも少々書きました)。
しかしこれも、上記の話を踏まえて、生物学的な性のことではなく、「社会的な関係を持つこと」を象徴的に言っていると考えれば、いくぶん分かりやすいでしょう。

参考:

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)
(2011/09/02)
内田 樹

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なお、この話はまとまっていないので続きません。
                           (芸術学4年T.Y.)

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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