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共同体から世界へ

ライトノベル紹介を挟んで前々回の続きという形になります。
前々回には、東浩紀氏の「データベース」についても、「存在するものをデータベース化し、また自己更新によって新たなものを生み出すダイナミックな性格のもの」なのかも知れないと言いましたが、まあ『動物化するポストモダン』を普通に読む限りでは、「データベース」と「データベースを読み込む(動物化した)人間」という主客二元論は堅持されています。

たとえば以下の図。

データベース消費モデル
 (東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001、p.51)

左側のスペクトル帯のような「深層」と、右側に目の形で描かれた「私」が離れて向き合っています。そして、「物語消費に支配されたオタク系文化においては、作品はもはや単独で評価されることがなく、その背後にあるデータベースの優劣で測られる」(同書、p.53)とあるのですから、真ん中の「小さな物語たち」が具体的な「作品」であり、「その背後にある」もの、つまり「深層」こそが「データベース」ということでしょう。

斎藤環氏によれば、この「データベース理論」が示したもっとも重要な点は以下のようなものです:

 この東による「データベース」の発想が有意義なのは、キャラクターという特異な表象物の存在理由を説明する場合に、必ずしも「人間の欲望」だけを前提する必要がなくなるという点にきわまる。
 (……)
 はじめに欲望ありき、では表象物は成立しない。むしろ人間の欲望は、無数の表象物に導かれるようにして、自らを事後的に発見してしまうことがある。(……)ここでそうした「発見」を誘発するのが、おたく達の「データベース」なのである。
 (斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』、筑摩書房、2011、p.206)


見方を変えると、東氏は「データベース」と「データベースを読み込む私」の二項を前提した上で、(少なくとも、人間が作り出す文化的産物の領域においては)「“私”のあり方が何を欲望するかを決める」という常識的な考えを引っ繰り返して、「欲望される対象の私に対する優位」を主張しているわけです。
しかし、このような考えこそ素朴に過ぎはしないでしょうか。
「私」と「対象(=データベース)」がまずあっての「関わり」というよりも、「私と対象とを含んだ一つの活動」というものが問われる余地はないのでしょうか。

もっと言ってしまうと、そもそも東氏は「『小さな物語』と『設定』との二層構造」「見せかけと情報の二層構造」を語っていますが、上記の図で「私」を含めれば三層あります。
氏の理論においては「私」というものが問題になる余地はないのかも知れません。


まあしかし、この問題は私にとっても多くこれからの課題とならざるを得ないでしょうから、これくらいにしておきます。
話は大きく変わって、宇野氏の仮面ライダー論で、今度は『W』の話になります。

『ディケイド』がメタ物語に徹し、ほとんどまともなストーリーというものを放棄した後、『W』は、「『ディケイド』とは正反対の形」で、すなわち「『物語』の力で『世界の終わり』と『ハードボイルド・ワンダーランド』を再び接続する、という形で」「リトル・ピープルの時代を引き受け」た作品として位置付けられます(『リトル・ピープルの時代』、p.342)。ここには特に異存はありません。
しかし宇野氏にとっては、この再統合こそその想像力を大きく制限しているようにも思える」(同書、p.348)というのです。

 またフィリップと翔太郎=仮面ライダーWの正義を支えるのは、「風都」のローカルな共同性だ。本作中にはほぼ「風都」以外の都市は登場せず、主人公たちの動機も「風都の平和を守る」ことで一貫している。逆を言えば、この狭い街に閉じこもっているからこそ、フィリップと翔太郎はゆるぎない「正義」にコミットできるのだ。
 そして前述の通り、フィリップ/翔太郎のアイデンティティは「街の人々」からの承認に裏づけられている。リトル・ピープルの時代における正義/悪の記述の困難は、ビッグ・ブラザーが規定する価値基準に支えられた公共性の失効だ。あなたの考える正義/悪と、私の考える正義/悪が一致しないのはもはや前提だ。だからこそ「世界の平和を守る」ウルトラマンから、「人間の自由を守る」仮面ライダーへ、ヒーロー像は変化せざるを得なかった。だが、本作『仮面ライダーW』は風都というローカルなコミュニティに世界を限定し、そこをひとつの正義が支持されるテーマパークとして演出することで再び「世界の平和を守る」ヒーローを演出した。それはいわば「小さな正義」への縮退だ(この縮退を引き受ける態度はいわばコミュニタリアニズム的である)。

 (……)しかし、そもそも現代における暴力の問題とは、こうした小さな物語に回帰し、小さな正義を掲げる者(共同体)の乱立が生むものだったはずだ。風都の正義は、前提として他の街の正義とは異なるのだ。だが、風都以外の街を決して描かない『仮面ライダーW』は、リトル・ピープルの時代に渦巻くさいぢあの問題を半ば確信犯的に排除している。
 (宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎、2011、p.349-351)


『W』という作品が舞台を風都に限定しているという演出上の事実に対する解釈として、これはおおむね正当でしょう。
そして、正義が成り立つために、人の顔が見える「適切なサイズの共同体」が求められるというのも、ほぼ間違いなく事実です。

しかし、わたしの正義とあなたの正義、風都の正義と他の街の正義が「前提として」異なるという強い表現に対しては、普遍的な価値基準が見出されないことからは、ただちに「わたしとあなたの正義が異なるのでなければならない」ことも導かれない、と反論する余地があります。
たしかに共同体の倫理あるいは正義は、ほとんどつねに他の共同体との対立を含みます。
しかし、その対立を乗り越え、「正義」の範囲を拡大していけるかどうかは、開かれた問いではないでしょうか。

『W』がそれを主題化していなかったことは事実ですが、ある事実を挙げておきましょう。
『W』本編の終盤に放映された映画『仮面ライダーW FOREVER AtoZ 運命のガイアメモリ』では、次のライダーであるオーズが顔見せ的に出演します。
そして、「ライダーは助け合いでしょう」と言って、翔太郎に加勢するのです。

オーズ=火野映司が(風都に閉じこもっていた翔太郎・フィリップとは対照的に)世界を旅してきて、「地球」を夢見て、「誰にでも届く手」を欲する人物であったことは、実に意義深いことです。「正義」の範囲を世界へと拡大できるかという問いは継承されていました。
そして先の映画『MOVIE大戦MEGA MAX』では3ライダーが揃い踏みしますが、ここで翔太郎は映司に言います。

「あんた最初に会った時に言ったよな。ライダーは助け合いだって。借りを返すぜ」

街の外から来たライダーとも手を取り合うことは「できる」のです。

そして現在放映中の『フォーゼ』は学園物であり、風都よりもさらに狭い範囲、学園内に話が限定されているように思われました。しかし、関係者こそ今のところ学園の生徒・教師(・理事長)だけですが、比較的序盤からゾディアーツが街に出て暴れる展開も描かれました。
むしろ舞台が狭すぎるかゆえに、そこだけに事態を限定することはできないのです。
弦太郎も「転校生」であり、「この学園の全員と友達になる」というノリで以前からやってきたとすれば、天ノ川学園の外にも友達はいるはずです(ちなみに映画で共演する時の台詞は、「俺はライダー全員と友達になる男だ」でした)。
そして何より、黒幕の我望光明(理事長)は、「宇宙は私の手に」という、ほとんど平成ライダー史上最大の野望を持つ人物として描かれています。

おそらく、本作が成功すれば、学園という小さな共同体に根差すことが外への開かれに繋がる様を見せてくれるのではないか――私は少なからず、そう期待しています。


なお、明日は出かけるのでブログ更新はお休みするかと思います。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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