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続・「萌え」考

思い出した話から書いているので、毎度毎度、前回との繋がりの乏しいことですが…
まずは、再引用が多くなりますが、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』からです。

特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。
 (東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001、p.76)


ここから出てくる、一番単純にして極端な解釈は以下のようなものでしょう。

 萌えの対象になっているのは、一般には、アニメ、マンガ、ゲーム等のキャラクターだが、見逃してはならない重要なことは、その際、対象が漠然とした全体として欲望されているわけではないということである。対象であるキャラクターは、欲望が差し向けられるべき、明確に定義された関与的な性質の集合によって誘発されているのだ。具体的には、「メイド服」「猫耳」「しっぽ」「触角のように刎ねた髪」等が、萌えを誘発する関与的な性質である。東浩紀は、こうした性質の一つひとつのことを「萌え要素」と呼んでいる(『動物化するポストモダン』講談社現代新書)。キャラクターは、それゆえ、萌え要素の中からいくつかを選び出し、束ねたものだということになる。また、特定の萌え要素に着眼すれば、作品横断的にキャラクターを整理し、分類することもできる(たとえば、メイド服のキャラクターは、さまざまな作品に登場する)。このようにしてキャラクターを享受することを、東は「データベース消費」と呼んだ。
 (大澤真幸『増補版 虚構の時代の果て』、ちくま学芸文庫、2009、p.317)


このような主張に事実のレベルで反論することは、(私も今までさんざんやってきたように)さほど難しくありません。
たとえば「メイド服萌え」といっていたところで、メイド服を着たキャラクターなら何でもいいかというとそうではなく、「絵柄が好みでない」「そもそも絵が下手なので萌えない」といったことはいくらでもあるわけでして、だからこそ人気のあるものとそうでないものがあるのです(もちろん、絵の他にも様々な決定要因があります)。
特定のキャラが「メイド服」「猫耳」といった要素の集合には還元できない、唯一無二の存在であるとして愛着を注ぐ証言も見付けるのは容易です。
しかし、では、どこで不適切さが生じたのでしょうか。

ふたたび『動物化するポストモダン』に戻って、'90年代後半以降、『エヴァンゲリオン』の綾波レイに似たキャラクターが量産されたことに関する記述を見てみましょう。

 したがって筆者はこの状況を捉えるには、データベースのイメージのほうが適切だと考える。レイの出現は、多くの作家に影響を与えたというより、むしろオタク系文化を支える萌え要素の規則そのものを変えてしまった。その結果、たとえ『エヴァンゲリオン』そのものを意識しない作家たちも、新たに登録された萌え要素(無口、青い髪、白い肌、神秘的能力など)を用い、無意識にレイに酷似したキャラクターを生産するようになってしまった。
 (『動物化するポストモダン』、pp74-75)


この記述を見れば分かる通り、東氏も「綾波レイ」というキャラクターを「無口、青い髪、白い肌、神秘的能力など」という要素の集合に還元できるものと考え、レイの出現によってそれらの要素がデータベースに「新たに登録された」と考えています。
しかし、個々の要素に限定して言うなら、それらの要素を備えたキャラクターが綾波レイ以前にいなかった、などということがあるでしょうか。言ってしまえば、個々の要素をこうして取り出してみると、よくあるものにしか見えません。
それに、キャラクターがそうした要素の組み合わせでできているなら、それらの要素を“まったく綾波的でない”要素と組み合わせることも自在に可能なはずで、全体として「綾波レイに酷似したキャラクター」が量産されることは、何ら説明されません。

この話はむしろ、綾波レイというキャラクターが「無口、青い髪、白い肌、神秘的能力など」といった要素に還元不可能な「漠然とした全体」(大澤真幸)であることを語っているのではないでしょうか。

最初の引用文をもう一度よく見てみましょう。キャラクターを「萌え要素に分解」するということは、分解される前に、まず全体としてのキャラクターがあるということではないでしょうか(そうでなければ、何を「分解」するのでしょう?)。
そこで、「盲目的な没入」の対象となるのはあくまで「分解」の結果として生じる「萌え要素」である、と主張するならば、実際にはその「没入」は「分解」と「ともに」ではなく、“キャラクターを全体として把握すること”と“分解すること”に遅れることになります。そしてその場合、全体として把握されたキャラクターを前にして、それを萌え要素に分解するよう駆り立てる感情は、「萌え」の対象への「没入」とは別物ということになるので、別に説明されねばなりません。
しかし、これはいかに何でも、作為的で無駄な区分ではないでしょうか。

氏の記述から言えるのはむしろ、「萌えるという消費行動」においては、対象を「漠然とした全体として」捉えてそれに没入することと、それを「冷静」に分解することとが“同時に”行われている、ということのように思われます。
私はただ揚げ足を取りたいのではなく、氏の議論を有効性を持つものとして読み直そうと思うなら、こうした方が良いと考えているのです。
実際、東氏はなぜ「影響」という考え方を批判するのでしょうか。

 オタク系作品に頻繁に見られるこのような繋がりは、従来「引用」や「影響」や「パロディ」といった言葉で語られてきた。しかし、「引用」にしろ「影響」にしろ、それらの概念は作家や作品という単位を無意識に前提としている。(……)
 しかしその有効性もまた限られている。かりに〔『機動戦艦ナデシコ』の〕ルリがレイや〔『雫』の〕瑠璃子の引用だとして、ではそのとき「引用」を行ったのはだれなのか。監督の庵野秀明やキャラクター・デザインの貞本義之の個性と役割が比較的はっきりしていた『エヴァンゲリオン』に比べ、『ナデシコ』の複雑な構成に佐藤竜雄や麻宮騎亜がどのように関わっていたかを知るのは難しい。
 (同書、p.73)


奇妙な話です。「誰が」影響を受けたのか、スタッフが「どのように関わっていたか」を部外者が「知るのは難しい」ことから、スタッフが「影響を受けた」ことがなぜ否定されるのでしょうか。複雑な形で関わっている不特定多数のスタッフが揃って「エヴァンゲリオンの影響を受け」ていけない理由があるのでしょうか。それとも、傍からどんな役割を担っているか分からない人には、影響を受ける能力も認められないのでしょうか。
結局、氏が批判せんとしているのは「作家や作品という単位」です。つまり、「影響を与える作品」と「影響を受ける人」という二項関係を排そうとしている、ということのように思われます。
しかしそうならば、「作家が影響を受けた」のではなく、「データベースが変化した」と考えることは、「作家(=人間主体)と作品(=対象)とを含んだ一つの活動」のあり方が変化した、と考えることではないでしょうか。
が、東氏自身の理論的タームは、主客の分離をつねに前提しているのです(「共同体から世界へ」参照)。
氏のオタクとして経験に基づく直観を、氏が用いている理論的タームはうまく語りえていないのではないか、と思われるのです。

綾波レイの出現が「作家に影響を与えた」というよりも「オタク系文化を支える萌え要素の規則そのものを変えてしまった」というのは、“全体として綾波レイのようなキャラクター”というカテゴリーが新設された、つまり、(「綾波系」に近いキャラクターはそれ以前にも存在しなかったとは言えないのですが)「綾波系」というカテゴライズを可能にした、ということなら、私は一字一句たりとも異議を唱えたいとは思いません。
                           (芸術学4年T.Y.)

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萌えの二重の操作

続・「萌え」考の続きになります。 前回は、「人は“萌える”に当たって、対象となるキャラクターを一つの全体として捉えて没入すると同時に、それを諸要素(東氏の言う「萌え要素」)に分解してもいる」という...
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Author:T.Y.
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