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萌えの二重の操作

続・「萌え」考の続きになります。
前回は、「人は“萌える”に当たって、対象となるキャラクターを一つの全体として捉えて没入すると同時に、それを諸要素(東氏の言う「萌え要素」)に分解してもいる」ということでした。
そこで問題となるのは、なぜそんなことをするのか、です。

先に私の考える答えを言えば、それはこの二つの操作が相補的なものである、つまり分解することは「キャラクターを一つの全体として捉え」て享受することの助けとなるからです。
また、別の機会に宇野常寛氏の「データベース」解釈(?)に触れて、宇野氏の理論もまた「いかにして『新しいもの』が生まれるか、という点は十分に説明していない」と言いましたが、この萌えの二重の操作こそ、「新しいもの」を生み出す過程を考えるヒントでもあります。


ここで一端、話は大きく外れるようですが、ある古典的な芸術についての考え方を見てみることにします。

まず、ただの石の塊は美しくありませんが、彫刻家がその石を刻んで作った彫像は美しい、とします(石の結晶そのものが美しいと思う人もいるかと思いますが、それは置いておきます)。
違いはどこにあるかと言えば、それは彫刻家が形を与えたからです。
つまり、美しいのは素材(哲学用語で言えば質料)ではなく形(形相)です。
それゆえ、芸術家が頭の中に形を抱いた時点ですでに「美」は成立しているのであって、素材はそれに対する抵抗でしかありません。何しろ、頭の中に抱いた「美しい形」をつねに完璧に実現できるわけではないのですから。
優れた画家は手なくして生まれてもやはり、いやそうであればなおさら、最高の画家なのです。

……といった考えを「おかしい」と思うなら、それが普通です。

手のないラファエロは、質料的世界によってにごらされることのないその純粋な精神的構想のゆえに、新プラトン主義的芸術家の理念を体現するものといってよい。(……)だが、手を持たない画家、すなわち実際には絵を描かない画家という奇妙な想定が、この新プラトン主義的芸術観の持つ問題点をあぶりだしているように思われる。
 (小田部胤久『西洋美学史』、東京大学出版会、2009、pp.33-34)


ある程度制作の経験のある人なら、言われるまでもなくご存知のことかも知れませんが、制作する過程で構想の方も研ぎ澄まされてくる、というのが事実ではないでしょうか。

さて、頭の中の「構想」を素材に実現させる「制作」と、一つの全体として捉えられたものを諸要素に「分解」することは、「一つの抽象的な、固有のものから、たくさんの具体的な、他と共通するものへ」という道のりであるという点で、共通しています(素材のみから見ると「複数の素材を組み合わせて作品を制作する」のですが、ここで問題なのは「構想→実現された作品」という道のりです)。
絵画や彫刻の作品はそれぞれただ一つのものですが、素材となる絵具や石は他の作品と共通しているのと同様、(前回の例で言うと)「綾波レイ」と完全に同じキャラクターは『エヴァンゲリオン』以外の作品には存在しませんが、「無口、青い髪、白い肌、神秘的能力」といった要素は他のキャラクターにも共通するものです。

分析は対象をすでに知られた、すなわちその対象と他の諸対象に共通する諸要素に帰着させる操作である。分析することはそれゆえ、ある事物をその事物ではないものの函数で表現することにある。(……)ゆえに分析は無限に続く。しかし直観は、もしそれが可能であれば、一つの単純な行為である。
 (アンリ・ベルクソン「形而上学入門」『思想と動くもの』収録)


さて、「芸術家が構想を抱いた時にすでに芸術は完成している」のでないとしたら、構想→実現された作品の道のりは、新しいものを創造する過程であることになるでしょう。だからこそ、「構想の方も研ぎ澄まされてくる」のです。
実は、「萌えキャラ」を「萌え要素」(「萌え属性」)に分解する過程も、同様のものではないでしょうか。
現に前回の最後で、綾波レイの登場は「綾波系」というカテゴリーを新たに生み出した可能性を私は示唆しておきました。
キャラを要素に分解することは、新たな萌えのカテゴリーを創造すると同時に、一つの全体として捉えられたキャラの魅力をもさらに見出すことを可能にする、生産的な過程だとしたら、どうでしょう。

つまり、――もう同じ例で通しますけれど――「無口、青い髪、白い肌、神秘的能力」といった要素は決して「一つの全体」としての綾波レイには到達しませんし、それらをただ集めても「綾波レイに似たキャラクター」でさえ(少なくとも魅力的なものは)作り出せるかどうか怪しいものです。しかし、そうした要素の分析は綾波レイの魅力をいっそう感じ、似たキャラクターを見出し(あるいは創造し)、そしてひょっとするとまた別の新たな萌えを見出すための「手引き」にはなり得るのです。

『動物化するポストモダン』の序盤でも、オタク文化における二次創作の隆盛に触れて、東氏はこう書いていました。

 この特徴がポストモダン的だと考えられているのは、オタクたちの二次創作への高い評価が、フランスの社会学者、ジャン・ボードリャールが予見した文化産業の未来にきわめて近いからである。ボードリャールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない、「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。原作もパロディもともに等価値で消費するオタクたちの価値判断は、確かに、オリジナルもコピーもない、シミュラークルのレベルで働いているように思われる。
 (東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001、p.40-41)


シミュラークルの原義は「幻影」ですが、しかしそこからシミュラークルの創造性が否定されるわけではありません。
むしろ、「オリジナルは新しいものの創造であり、コピーはすでに存在するもののコピーである」という区別が「弱く」なることは、創造的活動が広く分有されることではないでしょうか。
つまり、オタクが萌えキャラを要素に分解することは、創造的な過程に参与する一環としてである、ということです。

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                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
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