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キャラと虚構は使いよう

もう今更続けなくてもいい話なのかも知れませんが、前回の、キャラの世界観・ストーリーからの独立性という問題に関しては、ライトノベル『羽月莉音の帝国』における春日恒太の件が良い具体例分析になっていました(『羽月莉音の帝国』――政治的武器としての「キャラ」、および中身は変わっていないはずなのに…を参照)。

序盤はただの「中二病(あるいは邪気眼)の役立たず」だった恒太が、中身はまったく成長していないのに、貢献度のみならず読者への印象をも180度変えるというのは、キャラがいかに物語に依存するかという好例です。
そして、「成長し、活躍度合いをも変えるキャラ」(巳継)「成長せず、活躍の仕方も変わらないキャラ」(柚)をそれぞれ使い分けている辺り、作者の至道流星氏はこの点に対したいへん自覚的であることが窺えます――「“キャラが立って”いればどんな物語にも放り込める」といったありがちな言い回しよりも数段深いところで。
しかもそれを政治的情報戦という題材と結び付けて描いてみせた手腕はほとんど革命的です。

ちなみに、最新の9巻では恒太はついに皇帝になっています。『コードギアス』ネタは長い伏線だったということで…
当初は誰がこんな事態を予想したでしょうか。

 ライトノベルの作家と読者は、戦後日本のマンガやアニメが育てあげてきた想像力の環境を前提としているために、特定のキャラクターの外見的な特徴がどのような行動様式に結び合わされるのか、かなり具体的な知識を共有している。したがって、彼らは、作品のなかに(たとえば)小柄でドジな女の子が現れれば、半ば自動的に、彼女がこの状況ではこうする、あの状況ならそうすると、複数の場面を思い描くことができる。作家もまた、読者にそのような能力、いわば萌えのリテラシーを期待して、キャラクターを造形することができる。
 (東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007、pp.45-46)


これはまったくの間違いではないけれども、読者が「思い描」いた結果が実現されることも、予想が裏切られることも両方あり得るのであって、やはり意外性という要素は小さくないこと、忘れるべきではありません。

 ~~~

そろそろ話を変えてみましょう。
自らを更新する“生けるデータベース”」で宇野常寛氏の「拡張現実」(同氏はこの概念をErick Schonfeldの論から取っているようですが)に触れつつ、説明を先送りにしていましたね。
これは、「この現実」とは別に「ここではない、どこか」を作り出す「ヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)」に対して、たとえばゲームのような虚構の世界を現実に重ね合わせて、現実を拡張していくやり方のことです。代表的な例として挙げられるのは、『ポケットモンスター』の交換/対戦という現実のコミュニケーションが、「虚構(ゲーム)の一部と化」している状況です。
ここで引用される、小学生たちが多摩川で現実のザリガニやおたまじゃくしを取りつつ、同時にポケモンをプレイしていたという中沢新一の記述もなかなか印象的です。

ところで、そもそもなぜ「ヴァーチャル・リアリティ」は「仮想現実」と訳されるのでしょうか。

virtual adj.《限定的》
1. (名目上または表面上ではなく、力・効果・効力の点で)実質上の、事実上の、実際(上)の
2. [光学](1)虚像の (2)虚像の焦点の
3. [古](本来備わった力のため)効力[実効]のある、効果的な
4. [物理](粒子などが)仮の、仮想の
5. [コンピュータ]仮想記憶(virtual stroge)の[を用いる]
 (『ランダムハウス英和辞典』)


「ヴァーチャル・リアリティ」の場合の意味「仮想の」は、2あるいは4、つまり物理用語であることが分かります。
これに対して、1あるいは3の意味であれば、「ヴァーチャル」なものも現実の一部です。
virtualは遡ればvirtue(徳)と同語源で、ラテン語のvirtusに由来するとありますが、この場合のvirtusは「美徳」というよりもう一つの意味「力」でしょう。
目に見える形で物を動かしてはいなくても力は働いている、というイメージです。

実際、いつぞや触れた「一つの現実の中にもいわば様々な層が含まれている」というあり方を差して、ベルクソンおよびドゥルーズは「潜在的なもの(virtuel)」と呼んでいます。

可能なものは実在的なものの反対であり、実在的なものに対立する。しかし、それとはまったく違って、潜在的なものは顕在的なものに対立する。(……)潜在的なものは顕在的ではないが、そのものとしてある実在性を持っている
 (ジル・ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』)


まあ、「ヴァーチャル・リアリティ」は「この現実とは別に虚構された現実」という意味で固定しているので仕方ないのですが、こう考えると実は、「拡張現実」は本来の意味での「ヴァーチャル・リアリティ」だと言えなくもありません。
あくまで「この現実」の外はない、しかしその中にも様々な層があり、それは拡張し、更新していくことが可能である――

語源学はこのくらいにしておきますが。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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