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文学の厚み

論文に求められることとして、まず「学んだこと、先行研究についてまとめる」というのがあります。
学生の卒論レベルなどなかなか独自の見解や新たな成果にまで至らないだけに、これが中心になりがちです。
しかし他方で、結論として独自のものに至らぬまでも、自らの問題意識を持っているか、ということも問題になるわけでして……他大の院を受ける、つまり外部から来て「取りたい」と思わせるには、問題意識をアピールしていく方が重要だったのかも知れません。まあ今更感がありますし、別に言い訳をするわけでもありませんけれど。

 ~~~

故・阿部謹也氏によれば、「教養」とはまずは「集団の教養」であり、「個人の教養」が登場したのは12世紀頃のこと、と言います。その時代の人物で、「個人の教養の出発点に立っていたと同時に集団の教養にも目配りが利いた、この時代としてはまれな人物」として氏が名を挙げるのが、サン・ヴィクトルのフーゴーです。

[……]『ディダスカリコン』の中でフーゴーは哲学のすべての分野を修めた後陶工の道に進み、そこで修行する必要を説いている。あるいは哲学のすべての分野を修めた後靴直しの仕事に就く必要を述べている。
 (阿部謹也『「教養」とは何か』、講談社現代新書、1997、p.78)


やはり共同体に根ざしてこその教養なのです。
教養――「いかに生くべきか」の問い。

赤頭巾ちゃん気をつけて 帯
 (庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、帯)

値段が時代を思わせますが。

というわけで、長い前振りになりましたが、前々回に引き続き、ライトノベル『耳刈ネルリ』のお話です。
この作品の舞台となる第八高校(八高)という名称が、すでに旧制高校(戦後に旧帝大の教養部となる)を思わせるものでして、その点でも教養の問題を見て取った解釈は、さほど的外れではないと考えています(旧制高校なら、学生運動の時代よりさらに古くなりますが)。

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『ネルリ』シリーズ第2巻に当たる『奪われた七人の花嫁』は演劇大祭を巡るストーリーです。この手のイベントにクラス一丸となって挑む、というのも学園物の王道ですね。

八高の演劇大祭は演劇の専門誌が特集を組むほどの伝統と権威あるイベント。
三年一組のチェリ・チェリョームハは連邦の賞をいくつも獲っている舞姫で、かつ王族モデル(王モ)。そのチェリ先輩とネルリが喧嘩したことから、ネルリたちの一年十一組も演劇大祭に参加し、そこで勝負することになります。演劇の原作は連邦文化英雄勲章受章者の作家、A・コーチキンの『動乱』。初代ネルリ(大ネルリ)による「耳刈ネルリの乱」を題材にした作品ということでこれを選び、ネルリが大ネルリを演じることになるも、なんとチェリ先輩の三年一組も同じ演目である上、この小説中のネルリは悪役……シャーリックには大ネルリの作と伝えられる歌が多くあるということから、ミュージカルとして自由にアレンジすることになります。
さらに文化英雄コーチキン自身が演劇大祭に審査員として訪れるのですが、彼の周りには名にやら不穏な政治的動きが……。同時に、中央活動委員を務めるレイチの父(防諜関係の組織で働いておりその仕事の実態は不明、家にもほとんど帰ったことがない)も演劇大祭に来るというのです。

父との確執も少年の成長物語では基本と言えるテーマですが、これが政治的な動きと見事に結び付いています。むしろ、学校を閉じられた場ではなく、様々なところから生徒たちがやって来て出会い、また巣立っていく、社会へと開かれた場として描くに当たって、政治的空気の立ち込める世界設定が積極的な意義を持っているのです。

一年十一組の演じる作中作「耳刈ネルリと奪われた七人の花嫁」が、舞台の外でのコーチキンを巡る動きと同時進行するクライマックスの第四章は圧巻です。舞台の盛り上がりもいかにも凄そうに描かれていると同時に、舞台の中と外を行き来して奔走するレイチが描かれます。
音楽がないのが残念ですが、ミュージカル中で歌われる歌も見所。

  いくさっていいな
  いいな いくさって
  いくならいくさ
  いまこそ

  いくさはじゆう
  どこへいくにも
  なにをするにも
  もやすもうばいも おもいのまま
  おやつのじかんも
  おふろはいるのも
  いつだっていいんだ
  だっていくさだもん
   (石川博品『耳刈ネルリと奪われた七人の花婿』、エンターブレイン、2011、p.75)


と、この歌詞だけを見るとバカバカしくも見えますが、他にもラブソングや、

  ねえシックスティーン
  一人前だといいはるあなた
  私から見ればまだまだ子ども
  戦いなんかに行かないで
  あたら命を散らさないで
   (同書、p.190-191)


連邦の活動歌など、

  古き支配の 終わる日が来た
  若人たちよ 立ち上がれ いま
  敵の暴虐 恐るるに足らず
  たぎる心こそ 我らがつるぎ
  いざ打ち倒さん 眼前の敵を
  自由!
  調和!
  博愛!
  活動の精神よ 永遠なれ
   (同書、pp.243-244)


多様な挿入ジャンルが入り乱れ、まさに「カーニバル的」(バフチン)文学の世界を見せてくれます。

そうそう、『動乱』のモデルはプーシキンの『大尉の娘』なのですが、その終盤、無実の罪で委員会に捕らわれたヒロインのオリガを助けるべく、恋人のリューリクが奔走している時、道端で出会った老人が実は中央活動委員会の委員長だったという展開があり――

「ご都合主義ここに極まれり、ね」
 窓枠に肘をついた○がつぶやいた。でもコーチキンは委員会の決定が場当たり的なものであることをいいたかったんじゃないだろうか。
 (同書、p.177)


文学の深さというものを雄弁に語る場面です。もちろん、レイチがそう思えるのは、その前に当のコーチキンの反体制的な発言を耳にしていればこそですが…

そして、この演劇は同時に、レイチとネルリの恋が表面化してくる過程でもあります。
ただ、エピローグではコーチキンの歴史的なその後を語ることもあり、卒業後のレイチによる後日譚が語られて、それぞれが国に帰って暮らしていることが示されます。その後で現在の高校生活に戻り、

 こんなこと誰にもいえなかった。
 僕はネルリに恋していた。生まれてはじめての、本当の恋だった。
 (同書、p.303)


と来るこの衝撃。
それぞれの立場を考えても、青春の一幕としての実らない恋なのか、と思われましたが――
最終3巻『耳刈ネルリと十一人の一年十一組』では二人の恋愛物語が主題となり、その先の感動を見せてくれます。


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                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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