FC2ブログ

過去を受け取ることに根差した強さ

解答用紙に名前・受験番号その他を書くのは試験開始前に(書く時間は試験時間に含まれない)というのが一般的ですが、解答用紙・問題用紙合わせて、試験開始後にしか開けない仕様になっているところもありました。
が、こういうことのせいにしたら負けです。

 ~~~

前回の『仮面ライダーフォーゼ』では、ついに新たな(5人目の)ホロスコープス(=黄道十二正座のゾディアーツ)が登場しました。しかも蟹座です。
『聖闘士星矢』以来の蟹座の呪いは解けるのか注目されるところですが(ライダーにおいては、『龍騎』のシザースという例もあるだけに)……古典的なカニ怪人的デザインからして、どうもあまり大物に見えないところがあります。落語マニアが敵幹部というのも面白いので、期待したいところですが。
それから、第19・20話の敵がドラゴン・ゾディアーツ、先の21・22話がペガサス・ゾディアーツ、そして次回予告で登場したのがキグナス・ゾディアーツ(白鳥座)……

完全に『聖闘士星矢』です。

すると次はアンドロメダ座とフェニックス座? ひょっとすると6話先まで確定か…

 ~~~

ところで、映画『海賊戦隊ゴーカイジャーvs宇宙刑事ギャバン』では、最初でいきなりギャバンがゴーカイジャーを攻撃してきて、ゴーカイジャーは逮捕されます。ただそれは、宇宙警察総裁ウィーバルに成り代わってゴーカイジャーの逮捕命令ザンギャックの手先アシュラーダの正体を暴くためだったのですが…
この映画でも、ゴーカイジャーは「アシュラーダを倒して宇宙警察乗っ取りの野望を阻止しよう」とは言いません。ギャバンにしても、ゴーカイジャーを逃がして魔空空間に消えますが、その前に利用する意図をもってゴーカイジャーを逮捕しているわけで、これだけでただちに「助けなければいけない」相手とはなりません。
ただ、マーベラス(ゴーカイレッド)が幼い時にギャバンに助けられた(らしい)ということで、その確認のためにもギャバンを助けに向かうことになります。この辺、あくまで正義を掲げはしないというスタンスを貫いて上手く作劇されています。
またその上で脚本の荒川氏は、

 テレビシリーズとの兼ね合いで気をつけたのは、アカレッドの立ち位置です。ギャバンがマーベラスにとって、アカレッドより大きい存在になってしまうと、それはそれでバランス的に違ってくるんですね。そこで、マーベラスがギャバンと出会っていたのは宇宙海賊になる前、ということにしました。
 (パンフレットより)


と、色々気を遣っています。

そんなゴーカイジャーが最後で「地球を守る」と言ったのは、「お宝」にも勝る守るべき価値を見出したからであり、その価値ある対象とは「スーパー戦隊の歴史」であった――ドラマツルギーとしてはこれ以上のものはなかろう、と思います。

…と、その上で、前回記事へのポール・ブリッツ氏のコメントにある程度お答えしたいと思います(どれだけ答えられるかは分かりませんが)。
作品解釈に沿ったところから始めましょう。

ポイントはまず、ゴーカイジャーたちがスーパー戦隊の存在を守ることを決意すると同時に、「過去があって今の俺たちがあるんだ」と、“故郷や大切な人を失ったという自分たちの過去を受け入れる決断”をもする、というところにあるでしょう。ここで肯定されているのは、過去を「あるものでしかありえない」ものとして受け入れることであり、それによってこそ得られる、未来に向かう強さです。

> 個人的には、悪があろうが正義があろうが、「それで世界が存在しているならば、それはそれだけのことである」と思っております。

私はそのような考えに反論したいとは思いません。が、それであればなおさら、「この世界」を否定することは正当化されない、と思っています。
問題になるのは、「あるものとしてこの世界を受け取る」ことではないでしょうか。

もちろん、それは通常の話であり、現に世界を別様に改変できる力がある場合は別に考えるべきではないか、という考えはそれなりに正当です。
実際、『ゴーカイジャー』作中においては「スーパー戦隊の存在と引き換えにザンギャックを消したらどうなるのか、良くなるのか悪くなるのか」は示されていない(願いは一度きりである以上、試しようもありません)のですから、「悪もヒーローも存在する世界」と「悪もヒーローも存在しない世界」を並べて俯瞰して、どちらを選ぶべきか、という話なら、前者の方が良いとする確かな根拠はないと思います。
ただおそらく、世界の内に生きている者の決断は、そのように世界を外から俯瞰したようなものではないのでしょう。

ここで思い返されるエピソードがあります。ジョー(ゴーカイブルー)は、ザンギャックによってバリゾーグに改造されたシド先輩を元に戻すことは不可能であることを知り、その上で「魂だけでも」救おうと戦った大原丈(ライブイエロー)の志を受け取ります(この回についても以前少し書きました)。そして実際、バリゾーグを一騎討ちで倒し、この件に決着を付けました。
しかし、そんなジョーも、宇宙最大の宝の力でシド先輩を生き返らせられると知ると、心が動くのを見せます。
物事が別様であり得ると思うと、未練も出てくるのです。
ニーチェ風に言えば、この世界とは別様の世界を求めるというのは「背後世界」的想定、現実からの逃避であり、生を弱らせるものである、ということです。ゴーカイジャーはそれよりも、「現にある」この過去とこの現在を受け入れることにこそ根差した強さを肯定した――作品解釈としてはこう言ってよいでしょう。

ある程度はこの延長上にあるのですが、ただ前回私が「おそらく悪はまた生じるでしょう」と言ったのは、必ずしも『ゴーカイジャー』作中に示されていることではないので、作品解釈からはもう少し離れます。
さらにある曖昧さも認めます。ここでの私は「悪」ということで必ずしも「ヒーロー物における悪の組織」だけを意図してはいませんでした。その意味ではいっそ、もっと広く「困難」とでも言った方が良かったかも知れません。
つまり、簡潔に言えば、苦しいものであっても過去(歴史)を奪うことは、将来の困難に立ち向かう強さをも奪うことである、ということです。

ただ、この話をヒーロー物に差し戻すなら、人々の強さに根差してこそヒーローも生まれる、つまり歴史を守ることはヒーローの十分条件ではないけれど、必要条件である、ということになるでしょう。
ヒーローの出自は様々ですが、一般人からヒーローに選ばれる例も多々ありますし、そうでなくとも、ヒーローが多くの人々の味方であるということは、ヒーローは人々の応援に支えられているということでもあります(ヒーローが迫害される話も、ヒーローは通常応援されるものであることを前提しています)。しばしば定番の、「人々の応援や祈りがヒーローに力を与える」は、そうした事情をよく表しています。
                           (芸術学4年T.Y.)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

コメント

No title

ばぁ~~~~~
久々に更新したアルヨ~~~~!

No title

少々わからないところが。

「この世界を否定する」ということをもうちょっと明晰にできないでしょうか。

そもそも、「過去に起こったことをなかったことにする」ことが、「今ある世界を否定する」ことと直結する、というのは論理の飛躍があるように思います。

「過去に起こったことをなかったことにする」ことが「世界の否定」につながるならば、それは変更後の世界で「変更された」ことを認識しているものがいなければならない、ということです。皆が皆、
「変更された」という記憶がなければ、それは「世界の否定」ではなく、「あるがままの世界をあるがままに受け取る」こととなんら違いはありません。

例えば、朝食の目玉焼きを作るのに失敗したとき、なにか超越的存在が現れて、「目玉焼きを成功させてやろう。ただし代償として、今朝覚えた英語の単語をひとつ忘れさせてやるぞ」といい、取引が成立した場合のことを考えてみましょう。変更後の世界では、わたしは朝食に目玉焼きを食べ、豆テストで英語の単語を思い出せずに悪態をつきます。それは必然的な流れであり、「あるがままの世界をあるがままに受け取る」ということです。これが「過去を否定した」と認識するためには、わたしは、変更後の世界において「取引の内容を覚えていなくては」いけません。

これと同様、「スーパー戦隊の記憶と存在」をなかったことにすることで世界が新たな前提条件下にリセットされるなら、そこで生きている人間一人ひとりにとっては、「リセットされた世界をあるがままに受け取る」ことができるだけで、「世界が否定された」ということにはなりません。「この世界にスーパー戦隊はいない」それだけです。

である以上、「苦しいものであっても過去(歴史)を奪うことは、将来の困難に立ち向かう強さをも奪うことである」とはいえないのではないでしょうか。「歴史を奪われた」ことを知らない以上、人々は必然的に動き、将来の困難に対して必然的に反応し、必然的に困難に負けるか、必然的に困難に勝つか、のどちらかです。もしかしたら必然的にヒーローが生まれるかもしれませんが、その未来を予測するのは人間の計算能力の及ぶところではありません。

そこらへんをもう少しわかりやすく説明していただければ、と思います。

だいたい、「かつてスーパー戦隊がいた世界があった」と考えること自体、『「背後世界」的想定、現実からの逃避であり、生を弱らせるものである』、と、その改変後の世界でのニーチェはいうのではないでしょうか? わたしにはそう思えてならないのですが。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
カレンダー
02 | 2021/03 | 04
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
参考文献
私が展開している思考の拠り所など(一部)。
スポンサー広告